小説

短編小説『ある親子の終わり -そして悪意の花は咲く-』

 少年には母がいた。
 それは取り立てて美しいと口にできるほど容姿には恵まれておらず、優しいと呼ぶには気性の激しさが上回り、知識を自らつけたがるほど勤勉というわけでもない。
 どこにでもいるような平凡な女だった。

 少年のことを大切に想った祖父母を病で失い、どこにでもいるような父も事故で亡くし、面倒を見てくれると言った親戚からは財産を食われて、挙句の果て追いやられ、帰る家も失った。

 この食糧配給所を形作るのはそういった事情を抱えた輩が集う、いつも役所が取り仕切る長蛇の列だ。

 受け取ることが出来るのは一人につき一食限りのみ。乾ききった固いパンに保存がきく缶詰類、そんな貧しい一食を受け取るのにも数時間はかかる。

 そんな公平さを保った列に今日も並ぶ。そして、やっとのことで手に入れた食糧を母と共にテントの中でありつこうとする。

 母は少年に向かって「お前も病気になったらいけないから、手をしっかり洗っておきなさい」と言いつける。

 少年は忠実に従って、手を洗える場所を借りに行き、言いつけを守って戻ってくるのだった。

「お帰りなさい」
 そう声をかけた母親は、食料を二人分の広げて待っていた。だが、少年は見逃さなかった。与えられるパンは一人につき二個だった。職員が紙袋に食糧を詰める際、しっかりとその目で見ていたのだ。

 それなのに広げられたパンは一個ずつ。母の横顔から視線を落として衣服を見ると、パン屑が大量に落ちていた。

「食べましょう」

 そう言って平然と母親は食事を始めた。彼は何も言わずに、目の前の女を見つめながら黙ってパンを口に運んでいた。


 人間は生きていく中で生きる意味を見失うと時間の感覚を無くす。何かを成し遂げる為に時間という物があるのならば、何も成すべきことを見出せなければ、それに無頓着になる。
 無気力な状態である内に、昨日や一昨日の自分は何をしていたのかはっきりと思い浮かべることはできなくなり、曖昧な状態のまま過ごした時の記憶という物はいつの間にか失われているのだ。

 どうでもいい事を人は憶えてはいない。
 だから、当然少年が生きているその時間の価値も暴落する。
 そうして、生きるために食べるのか、食べるために生きるのか、もはや判然としなくなった頃、彼が時間の流れを意識したのは、母の容態に変化が起きてからだった。

 彼は寒い空の下、列に並んでいる多くの大人に押されながら、たった一人で順番を待っていた。

 そして、やっとのことで得られた一人分の食糧を持って、母の待つ難民用のテントに戻る。息子の帰りを迎えるのは、母の優しい言葉ではない。彼の手にある食糧の入った紙袋を奪うようにひったくる、飢えた人間の乱暴な手つきだ。

 長い爪に引っかかれた手に赤い血が滴る。傷口に口づけながら黙って、無心に食糧にありつく母親をじっと見る。


 病に伏せた女の細腕には缶詰を開ける力など残されていない。だから、保存食の類には手をつけることはせず、少年に残していた。

 小さい手で缶詰を開けるのに苦戦している少年のことを気にもかけず、腹を満たされた母親はやがて目を閉じて眠る。そうして彼は一人で缶詰を開けなくてはならず、その小さな手に出来る限りの力を込め、やっとの思いで缶詰を開けるのに成功する。
 だが、力の加減を誤って缶の蓋で手の平を切ってしまった。
 思わず声を上げる。
 傷口を抑えながら痛みに声を震わせると誰かの視線を感じた。目をうっすらと開いた母はこちらを見ていた。だが、身を案じるわけでもなく、気だるげな表情をしながら背を向けた。

 彼は傷の痛みも忘れて、横たわる母の背を力なく見つめた。

 その内、母親は手足も動かせなくなっていった。それでも食糧を運び続けた。手足の動かない母のために、口元に分けた食糧を運んでやった。

 別に、愛していたわけではない。憐れんでいたわけでもない。

 ただ見たかった。壊れかけているこの女が死に近づくにつれ、本当の自分を奏でていた。それは、偽りの無い。生を求める魂の叫びであり、彼女の真実を語る音だ。

 母親の愛を知らない少年は、母親の終わりが奏でる音に魅せられていた。

 だが、いつものように食糧を運んできたとある夜、母は既に息絶えてしまっていた。
 少年は母親の骸を見下ろす。

 簡易ベッドから引きずり落とすと、遺体は力無く床に崩れ落ちる音が響く。試しに、彼はその身体を軽く爪先で小突いたり身体を転がしてみる。

 もちろん、反応はない。

「……起きてよ。母さん」

 とても悲しかった。

 母がその死の間際、息子に対してどのような恨み言を吐き出し、醜い本性でどれほど美しい音を奏でるのか。

 それを、見てみたかったのに、彼女の命の灯は消えてしまった。

「嫌だよ、母さん」

 少年は心に決めた。
 今度はもう失敗しない。
 何があっても見逃さない。
 死ぬ時を待つなどという回りくどい手も止めにしよう。

 必要なら、自分で刈り取ってやればいいんだ。


 どれだけ醜い最期でも愛してやれる、それを肯定してやれるのは自分だけだ。それを知っている自分が、この世界に隷属する人間たちに広めてやる。この世界の悪意に触れなければならない、自分が感じてやらなければならない。

 人間は知るべきなんだ。そんなに着飾らず自然な姿のままでいいんだ、と。

 彼は、缶詰で切り傷をつけた手の平を見つめながら―――。

「……ああ、楽しみだな」

 その顔を歪め、少年は初めて笑った。

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