
『デス・ストランディング』は、ゲーム業界でも異色の存在感を放った作品だった。
「孤独」と「つながり」というテーマを軸に据え、オンライン接続とオフライン体験を融合させるという試みは間違いなく革新的だった。
しかし、ストーリー終盤に至って、プレイヤーの間には感動もありつつ明確な違和感や虚無感がプレイ時に広がったこともまた事実だ。
- なぜ『デス・ストランディング』の終盤演出はプレイヤーにとって好ましくない感覚をもたらしたのか
- 小島秀夫監督の創作スタイルに潜む変遷とそのリスクについて
- そして、続編『デススト2』に期待と不安が交錯する理由
これらを深く掘り下げていきたい。
終盤演出に潜む違和感──「信じたものが裏切られることのみに意識が向く」
◇ アメリ=ブリジットのどんでん返し
『デススト』終盤、プレイヤーはサムとアメリの絆に希望を見出し、ビーチにたどり着く。
しかし、そこで明かされるのは、アメリとブリジットが同一存在であり、
彼女自身が「絶滅」をもたらそうとする存在だったという真実。
プレイヤーは、信じてきた希望そのものに裏切られるという展開、だったのかもしれない。
しかし、実際にはその実感が浮かばないまま物語(ムービー)が進行し、それこそストーリーの意図だったかもしれないが彼女の存在感や裏切りはあまりに急であり、積み上げてきた旅路の重みの意義を見失い、そのプレイヤーの感覚を無視する形になったまま進めてしまったのだ。
そもそも、デスストの成功点というのは、
「つながり」というテーマ自体は、配達行為とメッセージの残し合い、些細な道具や橋をかける行為などゲームシステムと見事にリンクしていた点や、サムとBBの絆を育む物語は、静かで温かい「人間賛歌」として心に残るものだったことだ。
そして、絶滅体(EE)とアメリのテーマに対する不満点として浮かび上がったのは、
「絶滅体」という設定が唐突に感じられ、途中までは「つながり」が主軸だったのに、クライマックスでいきなり「人類の絶滅は避けられない」という大きなスケールの話に飛躍する。
結果、「つながり」と「絶滅」のテーマが食い違って見えたことにある。

アメリは魅力的な存在だが、ラスト直前で「実は絶滅体だった」と明かされるので、プレイヤーが彼女に感情移入するのが難しかった。特にラストのアメリとの対話シーンは、「どうしてもメッセージを伝えたい!」という小島監督の強い意志が前面に出すぎて、ストーリーの自然な流れより作家の意図が勝ってしまった印象がある。「人類絶滅」というスケールの大きい話を後半で急に膨らませたため、プレイヤーがアメリや絶滅体に感情を乗せる前に物語が終わってしまった。
もしもサムとBB、そしてサムと人々との「小さなつながり」の積み重ねをもっと大切にして「絶滅」というスケールをもう少し丁寧に下敷きにしていれば、さらに傑作になっただろう。
急展開による情報過多
- 孤独の主人公
- 巨大な運命/社会/世界のシステム
- それに抗おうとする意志
この三つを自分なりに、無理にでも繋げてひとつの物語にしようとする傾向があります。
『メタルギア』シリーズでも“選ばれた兵士の孤独”とか“愛国者たちとスネークの個人戦”とか、似たような構造でした。
『デススト』においてもその癖は非常に強く現れていて、
- サム個人の孤独
- アメリという絶滅体=人類史の終焉
- BBという親子の象徴
- 配達という人と人を繋ぐ行為
を、すべて自分の手のひらの中でまとめあげようとした。そして結果的に『Death Stranding』の最後に感じた違和感は、小島監督特有の「個人の物語を世界のスケールに無理やり接続しようとする癖」から生まれたもので「プレイヤー個人」がそれに振り回される構図になった。
海岸で孤立したエンディングとその後の種明かし
サムが孤独なビーチに取り残されるスタッフロール演出。
「つながり」を築く物語のはずが、
最後の最後で孤立を突き付ける結末にプレイヤーはひたすら困惑した。
希望ではなく、虚無。
つながりではなく、切断。
このエンディングは、明らかにテーマとプレイヤー体験を乖離させてしまった一因であり、それを押し付けられたプレイヤーはただ困惑するばかりで物語が動いてもその時には完全に現実に引き戻されてしまっていた。そういう意味でも、クリエイターとしての数式的計算のミスは否定できない作品となった。
また、サムがクリフォード・アンガーの「繋がりの正体」
BB=ルーとの親子の絆が物語の核心だったことが終盤に急激に明かされる。
それまでの旅の意味づけが再解釈されるように感じるが、その一方でテーマが散らばってしまったのではないかと感じる人もいたはずだ。
それまでBBをクリフの息子として受け止めていた感覚の正体は本当に感動的であり、同時にブリジットが彼を殺めてしまったという重みを突き付けてくれる。
つまり、小島監督自身は「ブリジットもアメリも人間的な矛盾を抱えている」
「だからこそサムが選ぶ未来に意味がある」と意図していたのかもしれない。しかし、プレイヤーの「情緒の積み上げ」を無視して急展開をねじ込んでしまったため、結果として「幸せを壊した元凶となったブリジッドを信じた気持ちが無下にされた」という後味になった。
スタッフロール後にドカンと重い真実を投げつけるのではなく物語後半の中で、徐々に「サムの出自」と「ブリジットの罪」にフォーカスして気づかせる演出が必要だった。それにより、エンディング時点でプレイヤーが受け入れる準備ができるから「裏切られた」という感覚が和らぐ。しかしデスストは、プレイヤーがどう感じるかよりも、自分の中で「正しい」と思った物語運びを貫く傾向がこの作品ではある。

もともと小島監督は、感情の「どんでん返し」を最重要視する傾向が強い。
プレイヤーが「これで終わった」と安心した瞬間に「実は裏があった」と叩きつけることで、より深い感情の揺れを狙う。
これが成功すると『MGS2』のラストみたいな感動になるが失敗すると、本編のテーマを自ら壊してしまうリスクを孕んでしまう。
本来なら余韻として残すべき「親子の絆」や「信頼」が理屈で説明されすぎた結果、感情が台無しになることが起きやすいからだ。
これらのこうした違和感の背景には、
小島秀夫監督特有の創作スタイルが色濃く影響している。
小島監督の強み | 同時に抱えるリスク |
---|---|
・壮大なテーマと独自の世界観構築 | ・世界観や設定が広がり過ぎて暴走しやすい |
・プレイヤーを驚かせるどんでん返し | ・プレイヤーの感情の積み上げを裏切る危険性 |
・自己投影型キャラクター(例:スネーク、サム) | ・作家性が過剰に肥大し、共感が希薄化する |
・映画・文学などの文化的引用の巧みさ | ・自作内での自己陶酔やメッセージ過剰化 |
MGS時代は、コナミの制約やチームとの意見交換があったので、「プレイヤーが感情的にどう受け止めるか」「テンポや余韻のバランス」などが、ある程度コントロールされていました。たとえばMGS3の「ザ・ボスとの別れ」や、MGS4の「スネークの墓参り」など、絶妙に感情を誘導していました。
でも『Death Stranding』は完全に小島プロダクション単独制作。つまり、誰も止める人がいない状況だった。
MGS2まではかなり余韻を大事にしていましたがMGS4以降は謎や伏線をすべて自分の口で説明したがるあまりに、スタッフロールを迎えたエンディング後日談でも過剰な情報の洪水になって「終わっていない」傾向が明らかに強まっている。
近年では「プレイヤーに寄り添う」という感覚よりも、「自分が描きたいサプライズを最優先する」傾向が強まっている。
これが、物語体験の破綻や、共感性の低下を招く原因になっており『デススト』で所々の描写でそれが浮き彫りになってしまうこととなった。
デススト2にプレイヤーが本当に望んでいることとは?
1. キャラクターに「共感」できる物語
まず、プレイヤーがデススト2に最も期待しているのは、
「設定ではなく、キャラクターの心の動きに寄り添える物語」だろう。
初代『デススト』は、「世界観の崩壊」と「人と人との断絶」という壮大な理念を描いたが、
そのスケール感に押し潰され、サム自身の心情の掘り下げがやや平板になってしまった。
サムとBB(ルー)との絆は素晴らしかった。
だからこそ、今度の続編では
- サム自身の弱さ、迷い、再起
- ルーと新しい絆を育む姿
- 周囲のキャラクターたちと築く本物の「つながり」
といった、もっと小さな感情の連続を丁寧に描いてほしい。
2. 理屈抜きで没入できる「旅」の感覚
また、デスストの魅力のひとつだったのは、
「何も考えずにただ道を切り開く」体験だった。つまり、設定説明を抑え、体感でプレイヤーに語る設計が求められている。
「言葉より、足跡で語ってほしい」
それが本作の魅力を感じることができたプレイヤーの本音だろう。
『デススト2』への期待と不安
では、続編『デススト2』では何が期待でき、どこに不安を感じるのか。
期待できるポイント
- サムとルーの「親子の物語」がより深く描かれる可能性
- 『1』の失敗を踏まえた、サム主導型のストーリー展開
- プレイヤー自身が「つながり」を体験できる仕組みの進化
不安に感じるポイント
- またもや「信じた存在に裏切られる」展開のリスク
- 世界観の拡張ばかりが先行し、人物描写が薄まる懸念
- 小島監督の「驚かせたい病」の再発
特に、アメリ=ブリジットのような「黒幕型どんでん返し」と「世界の命運」のコンボが繰り返されれば、その展開にプレイヤーは置き去りにされて、プレイヤーにとっての「感情の積み上げ」がまたしても無駄にされる危険性があるかもしれない。
クリエイターたちはどこへ向かうのか
小島監督は独立以降「自由(リバティ)」を手に入れた反面、
制御できる存在がいなくなったことで創作衝動が暴走しやすくなった。
近年、SNSやインタビューを通じて著名人との交流や、文化人との対談、映画批評などを発信している。これは「一人のクリエイター」という枠を超えて、世界を代表する「文化アイコン」として演出している姿にも見える。
彼に限らずに成功を収めたクリエイターは「作品」よりも「本人」をブランド化する兆候として表れて多くを物語ろうとする。
確かに、決められたエンディングやシステムに導かれるものである以上は「選択」を強調しながらも多くの場合は用意された結論へ誘導することが多い。だが、ゲームとはプレイヤーが考え、感情移入しながらプレイヤーの手で自分の物語を紡ぐものである。

この基本則が技術の発達と共に衰退して、ゲームクリエイターたちが映画やドラマを気取りながら表現して「伝えたいことを、作者のペースで、全部受け止めろ」みたいな強制感が強くなっている。また、某社の『アサシンクリード シャドウズ』を巡る問題の核心も、単なる歴史的誤りや文化的描写の不正確さではなく、開発側の「自分たちの正しさ」や「優れている」という態度が透けて見えることで、自らの表現を正当化し、他者の意見や文化的背景を軽視する姿勢が、問題を深刻化させたことを示しています。
そしてそれは、プレイヤーの"感情"よりも、自分の"理念"を優先する傾向が強まったのも一因にあり、この承認欲求と増長ともいえるゲームクリエイターのセルフプロデュース現象は世界中で巻き起こっています。
国内でも代表例として近年の『FF16』と『新生FF14』を担当している吉田直樹氏であり、彼はその姿を追求するあまりにインタビューやメイキング映像などの露出と発信行為と共に重なる修正や失言などで初心を忘れたと思われた結果、ブランドの凋落を招いてしまっている先駆けに近い。また、SNSやインタビューでの発信がどんどん「文化人」っぽくなっていった点も似ています。
吉田直樹
→ ゲームクリエイターとしてだけでなく、ビジネスパーソン、経営論者的な発信が増えた。
小島秀夫
→ 映画監督や文化人、作家と対談し、「文化的権威」として語る機会が激増した。
これにはリスクも付随して回る。
- 作品そのものより、監督個人のキャラクターが先行する
- 作品に没入する前に、「作り手のイメージ」が邪魔をする
- 自己言及的な演出(メタ)で冷めてしまうプレイヤーが出る
『MGS2』以降、小島監督は「メタ演出」を得意としてきた。
プレイヤーの現実意識を引きずり込むことで、強烈な印象を残してきた。
だが、近年のデスストではメタファーがあまりに抽象的になりすぎたため、
逆にプレイヤーが感情移入しにくくなってしまった側面がある。
要するに「プレイヤーに驚きや意義を与えるつもりが、プレイヤーの心を置き去りにしてしまった」
という矛盾が生じているのである。
文化発信を続け、世界的にリスペクトを集めることは、もちろん素晴らしい。
だが、それが「作品の中にある無垢な情感」を削いでしまうリスクが常に付きまとう。
MGS4のオールド・スネークは、
「変わる時代や自分自身の存在に消耗しながらも、己の信念を貫こうとする存在」だった。
それが今では、サムやスネークのようなキャラクターだけでなく、小島監督自身が孤独な創作世界に閉じこもりつつあるようにも見える。
小島秀夫監督は、ある意味では孤独な天才型クリエイターの典型例ともいえる。
独立し、世界中から賞賛を得た後に、かつての「文化の媒介者」から「理念の伝道者」へと変わっていった。
だが、彼が本当にプレイヤーの心を震わせて評価を受けたのは、
「理念」ではなく「キャラクターたちの生き様」だったはずだ。

彼自身も自覚がないわけではなく「クリエイターは独りになる」と寂しそうに語ったり「もっとエンタメ寄りに戻りたい」と言うこともある。つまり「このままじゃまずいかも」という感覚自体は持てている。
それでも今のポジションから降りることがものすごく難しいのだと思える。
成功しすぎたから、普通の作り手としての振る舞いが求められていないなど考える部分も多いのでしょう。ただ、もし再び小島監督が「感情の作家」に立ち戻るならば『デススト2』は、世界中のゲーマーに忘れがたい"つながり"をもたらしてくれるとは思っている。
次なる一歩に期待を寄せたいからこそ、彼が再び「文化の媒介者」として輝くためには、
プレイヤーとの「つながり」を第一に考えること。
裏切る前に、感情の積み上げを大切にすること。
挑戦的で唯一無二のゲーム体験をもたらした『Death Stranding』
しかし同時に、今の小島秀夫監督の創作スタイルの到達点と限界も見せたのかもしれないし、小島監督がこれをどう受け止めて乗り越えようとするのか。
『Death Stranding 2』この続編が、単なる自己深化に留まるのか。
あるいは、孤独を越えた本当の「つながり」をプレイヤーと共有できるのか。
期待と不安を胸に、いま私たちはその答えを待っている。
