「人類種の天敵」というキーワードはそれぞれ誰を指していたのか
ACfaの虐殺ルートに関しては、これを誘った大本であるオールドキングの過去や動機が何一つはっきりしないというのがあります。
そして、何よりプレイヤーとは別に「首輪付き」自身の答えとして彼に誘いをかけられるまでもなく、クレイドルを破壊することを心の片隅で抱いていたこと。
この世界に対してそういった考えをかねてより抱いていたというのを、なんらかの考察という型に当て嵌めようと言葉にするのは無粋だなという意味でも、このルートがどういうものかについては、受け取り方は各々の自由であるとして自分としては避けていました。
ただ「人類種の天敵」という言葉が「首輪付き」その人自身の二つ名として受け入れられているという意味では少し触れておきたいテーマであり、あのように「人類種を淘汰」しようとしたのは何も首輪付きやオールドキングに限った話ではないということをお伝えしたいという内容で、今回は語っていきたいと思います。
割とシリーズを包括しながら語っていく内容ですので、ネタバレについてはいつものようにご容赦ください。
クレイドル体制という企業による生殺与奪
オールドキングが何を望んでいたのかは曖昧ながら手がかりにされるのはやはり代表的なセリフ。そして、彼はリンクスネームで古き王を自称して「選んで殺す」という逆説的に言えば、企業統治の時代の中で「選んで殺される」ような世界であるということ。
ひいてはその象徴と呼べるクレイドルという企業主導の選民システムに何かしらの感慨を抱いていたことが台詞などから微かに読み取れます。
リザって誰だよお前の彼女かぁ?
「戦争屋風情」というカラードのリンクスたち、ひいては企業に対するそういった想いから彼はORCAとは違った視点で立っていました。
反対に、虐殺ルートでは首輪付きにもう一緒にやれないと彼から離れたのがセレン・ヘイズ。
かつてのオリジナルでもある霞スミカは戦功を挙げることに消極的だったのか、トップランカーとしての扱いに相応しからぬやや低いナンバーを与えられているなど、そもそも無意味な破壊行為や殺生そのものは好ましく思っていなかったとも受け取れます。
AC4のナンバーとは企業陣営に関係ない功績の序列として割り振られているので、参加した作戦の重要度の差はあれど忖度はされていないもので、同陣営トップランカーのサー・マウロスクやGAの聖女様などよりも下位に甘んじ、あの狙撃や闇討ち上等のアンシール等とほぼ同列である彼女やシェリングは不自然に浮いているというお話をしてきました。
他人の仕事に対する甘さや雇い主の契約違反に対しては過激な言動ばかり見せる彼女も、一種の複雑な内面があったからこそ古巣であるインテリオルではなく、企業と距離がある傭兵として身を立てることを選んだ経緯からして、独立傭兵「首輪付き」が彼女なりの企業に向けた翻意の象徴だったとも受け取れますが、今となっては定かではありません。
いずれにせよ、人類廃絶に加担することは彼女の本意ではありませんでしたが、首輪付きはそういう意味ではオールドキング側に立っており、彼自身もプレイヤーとは別に何らかの感慨を抱いて生きてきた人物であるということは確かでした。
あの世界に生きている人間、さらには同じリンクスとして相通ずるモノがあったからこそ、プレイヤーやセレン・ヘイズとは関係ない場所で首輪付きは「付き合わないか」と誘いをかけられたわけですね。
企業に創り出された「新しい人類(リンクス)」
あの世界が異質だったのは圧倒的な性能を誇るネクストACも無論でしたが、何よりもパイロット側で「選ばれた戦士」であるリンクス達の自意識についてだったと思われます。
かねてより本サイトで語ってきているのは、国家解体戦争におけるオリジナルリンクスとは身の上話がほとんど明かされないために、作中で発せられた言葉や紹介文から人物像を解明していくしかありません。
元から兵士や傭兵の身の上から現れてきたレイヴンと違って、国家を打倒するべく企業群によってAMS適性を見出されて選ばれた人間として見るのであれば、彼らはそれまでの自分を捨てているただの人間たちです。
中には本名をそのままであろうウォルコット姉弟やら有澤社長など企業や名門の出身者、リンクスネームとしてサー・マウロスクという氏名にsirという敬称を名にしている自己顕示欲モリモリ疑惑の人もいますけどね。
それはともかく、彼らは全員が過去や本名を明かしているわけではない。むしろ捨てている側の人間たちが多いでしょう。
特にAC4のオリジナルリンクス世代でもコジマ技術の最先端を行くレイレナード陣営は顕著で、歴史や文学的な比喩を用いている者が多く、唯一ザンニさんは機体名含めて自嘲しているかのような身の弁え方ですが、BFF社然りこの陣営のロマンチストぶりは突出している状態と言っても良かったです。
フランケンシュタイン博士が生み出した「怪物」のように、歴史を辿ってきて自然に養われた人類の認知や情緒といったものから一線を画し、「新たな存在」が取って代わる世界に至っていることを指し示す名前。
それをBFF女帝の「メアリー・シェリー」は自分の名前として担っていました。ネクストACの機体名に「プロメシュース」と形容し、新たな存在として君臨するという彼女なりの意匠があったことは想像に難くないと筆者は勝手に受け取っています。
アンシールも命名としては人間に敵対する妖精の名を用いており、機体もレッドキャップで言わずもがなというモチーフでした。
言い方を変えてしまうと、国家時代に淘汰される側だった者が、新時代の上位者として君臨する手段と力を得ていること。
国家という旧い人類に牙を向ける存在として企業に見出されたリンクスは、その地位を自ら確立していました。
そしてこの人は王の責務として、長く続く「企業の時代」において選ばない殺しを掲げた異端の「答え」を示しました。
「人類種の進化」と自然淘汰への回帰
ここでいったんシリーズ的な話となりますが『アーマード・コア」シリーズにおける「管理者」とは社会システムそのものを担い、そこで生きる人々を統治する強大な存在として描かれている。
しかし、元はと言えばそれは人の手で造られたもので、人間による被造物はすべて「意思の反映」がされたものです。
「レイヴンズネスト」という初代から始まるバランサーの役目を担った世界に続いて、3系列の地下世界における秩序に基づいた管理者システムは無論。NXシリーズにおける「その意思がすべてを変える」というキャッチコピーもゲームシステム上の意味合いなのか、シナリオのオチ的には「何も変わらねぇのかよ結局」と言いたくなるところですが、人類が生み出した「過去の遺物(意思)」による世界の荒廃という意味では、そのまま受け取ることは一応できます。無茶苦茶強引且つ好意的な見方にしか見えないけどなメルツェル
皮肉なことに、「V」シリーズではクローン複製から始まって行き着いたのが、人間の意識が機械に刻まれる「ファンタズマ・ビーイング」として描かれ、かの「J」や「財団」も人類の技術による進化の姿形、その生きた在り方という意味では「人」という存在の一端となっています。本人は不快だよと嫌がるでしょうけど。
そもそも人間という我々の種族もとい「ホモ・サピエンス」はこれまでの社会性を獲得した自然科学的な発達から逸脱して、文化人類学の系譜から外れてしまいつつある、技術力という進化の方向性のコントロール手段を得つつあるという段階です。
現実でも研究が続けられている「遺伝子工学」や「機械工学」「非有機的生命体」という新たな進化を遂げた人の姿を、ACシリーズでは既に獲得し、それが旧世界に牙を向けてしまっているのです。
人は人によって滅びる。それが必然だ。
さらに少し脱線しますが、ACシリーズでは人類が生み出した遺物や進化を遂げた一部の存在が誕生してきた中で、新作AC6のテーマでも形態はどうあれ強化人間手術の発展、あるいは活用が意識されている模様。
この作品では、姿はどうあれ新たな進化を目指した人類の姿が掲げられてました。だからこそ、あの宇宙の海に飛び込んだ世界で何一つ強化が施されていないただの「現生人類」であるというフロイト君や、彼が一番に立ってしまう「企業主導の人間の限界点」を示していて象徴的だとかいろいろお話したいですが、そこらへんはAC6感想語りや記事あたりで触れていければと思っております。
古王と獣と狩りの獲物たち
いずれにせよ4シリーズでは他シリーズとは違うシンギュラリティとして機械工学、AMS適性に沿った手術による「人と機械の疑似的な一体化」がリンクスとネクストという存在などで表現されてきました。この世界の果てに行き着くとしたら記憶の電子化なのか。
しかし、「管理者」を自負している企業の老人たちは、国家を打倒した後は「自身の拡大のための経済戦争」に興じてきたことで、人類種の発展に貢献することはありません。
それどころか、自ら汚染した地上を見限った延命措置として自分たちの揺り籠を空に浮かべ、企業組織を保つ機構に過ぎない彼らになり替わろうとするラインアークの政治屋や反動勢力すら「自身の栄達」を願っているに過ぎない。
faの対立軸は企業vsORCAという彼ら自身の目論見通りの図式で語られがちでしたが、レイレナード陣営も過激な命名やら宇宙開拓により生じる経済的なフロンティア拡大に伴う犠牲を伏せたまま夢や理想を語るなど、結果的にロクデナシしかいないというのは大差ありません。
曲がりなりにも新たなフロンティアによる「人類の黄金期」に導かんとする「管理者」の在り方を目指していた彼らのビジョンは、新作AC6というルビコンという開発惑星を巡る物語でも鮮明なものとして突き付けられたわけですね。メルツェルだけは世の中こんなもんだと見越してそうですが。
宇宙の先でも「闘争」という自然淘汰の掟は続く
「無限の選択と淘汰」を繰り返す者こそが、人であること。
「戦いこそが人間の可能性かもしれない」という主任の見解は正しいのか的外れなのかはともかく、
「内向きの消費と自己の拡大や発展」だけを目指す閉ざされた人々の願いは、生物種として見ると停滞に過ぎないのか。
少なくとも、彼女はそう判断したようです。
何物にもなり切れないまま壊死しようとする世界で人々が安寧を貪ってクレイドルに揺られていたように、どんな世界でも「企業」や「管理者(システム)」の庇護を受けたり『いかなる存在でも自らの安寧と栄達を願うばかり』になったその時、その時々の人類を無差別な殺しによって鬻ごうとする「王」や「獣(猟犬)」が立ち塞がる。
無自覚のまま「淘汰される側」に立つことを選び取っていたとも呼べるかもしれない、
戦いを忘れようとしながら「自らの存続と成長のみを求めるエゴを持った者」は、闘争という古い人類史の自然の摂理から外れた時点で「狩りの獲物」となる。
「天敵」はいつだってすぐ近くに潜んでいるのかもしれません。
Scorcher (焼き尽くすもの)
そんなACシリーズにおける「君臨する上位者」による人類史的な自然淘汰もとい
「虐殺」と「天敵」に関する個人的な感慨と見解についてでした。抽象的なテーマだから手直ししとけよメルツェル
AC6に関しては内容は自分なりに受け止められたのですが「公式資料集が出てないうちに確証がないトピックを数打てば当たる狙いで触れ回ることほど危ういものはない」と戦友から訓戒を受けているので、引き続き小出しとなるのでお待ちいただけると恐縮ですレイヴン。