「陰キャ」と「陽キャ」
この言葉が殆ど日常の中で一般化している世界になっていると思いますが、何をもって当てはまるのか考えたことはありますか?
このカテゴライズって元を辿れば、人間の属性を二分化する構図に当て嵌めようとする延長線であって、かつての「リア充」と「オタク」による対立項の令和最新バージョンと呼べる流行語です。
しかし、今で呼ばれる「陽キャ」は「リア充」と呼べる存在でしょうか? 陰キャ=オタクであるならば、陽キャはオタク趣味を持っていないのでしょうか?
最近は映画でアニメ作品を見に行くという日本人文化が一般化するほど、サブカルチャーに染まっており、かつての二分化をもたらした線引きは意味を成さなくなりました。
では、改めて「陰キャ」と「陽キャ」の違いとはいったいなんなのか?
それを問いただしてみましょう。
そもそも皆が思う「コミュ力」とは?
コミュニケーション能力の優劣とはどこから来ているか考えたことはありますか?
例えば、会話が上手な人だとすると、それは努力や経験で補うことが可能であり、極端な話、会話の相手によっては上手くコミュニケーションを取れないなんて事例は誰にでもあります。
会社内で受話器を握るのが得意だと自負している若者はいますか?
はっきり言ってしまえば、同じグループや自分に近いものであれば普通に接することができるのは「陽キャ」も「陰キャ」も変わらないです。
あらゆるシチュエーションに応じて適切に応対することができる人間が「コミュ力高い」と評価されるなら、そこに「陽キャ」も「陰キャ」の定義なんて意味を成していません。
「コミュ障」はどちらにも存在する。
本来の「コミュ力」に基づいて考えるのであれば、会話の相手や状況次第では無力になる人間というのは、陰陽問わずにあらゆる人間の共通項であり、養っていかなければならない能力です。
むしろ、得意であることを自負している人間ほど、相手に不快な言動を重ねたり、無自覚のまま失態を犯すなどやっかいな人間になります。
アメリカでは「コミュニケーション障害」がこれにあたり、思うように会話を交わせない人は「対人障害」として区別されています。
コミュ力が高いと自負するには、相応の経験と失敗から学びを積み重ねることが不可欠であり、それだけの努力と克己心を持てるような立派な人物を「陽キャ」と一括りに評価を下すのは、かえって失礼にあたります。
しかし、このように誰かを評価する際に、一括りにして呼称するための言語として使われているのが「陽キャ」と、その対義語である「陰キャ」でした。
相対評価による自己肯定と自己否定
あくまでスクールカーストの概念に基づき、階層を言語化しようとして生まれたのが、これらの言葉です。
どちらも自分ではなく、周囲から送られる言葉であり、他人からの評価でしかありません。陽キャだから幸せか不幸せなのか、などの深い部分には目を向けていません。
相手が自分と同質であること、もしくは異質であることの区別として用いること。そこに重点を置いているただの言葉でしかないからです。
本質的に両者は「同族による世界」を求めている
自分たちの世界、この時間は充実しているという現実逃避を共有する。この意味では「陽キャ」も「陰キャ」も求めているものは同じです。
好きなこと、やりたいことといったものに違いはあれど、根本的な思想としては似たようなことを考えています。
何故これほどまでに人間を「区別」をしたがるのか?
その答えは、今生きている現実逃避のため、楽ができる人付き合いがしたいのであり、振るい分けをして「同族」を求めているからです。
だからこそ、自分とは違う相手には「コミュ障」となってしまうのです。
本当のコミュ力は「自立」にある
人それぞれで好きなことや振る舞い方も異なりますし、陰陽という「自分が思うキャラクター像」をまるで共通項として取り扱っている言葉というのが現実なので、このカテゴライズに拘泥する必要は全くありません。
むしろ、他人と向き合わず、比較による区別によって、頭の中の思い込みの勢力図を描いて生きる「本当のコミュ障」と化してしまいます。
そんな区別をしていては、自分は自分であり他人は他人という、個人同士としての隔絶や違いを越えて、仲を深められるきっかけには成り得ません。
陰陽問わず個人の資質や性質を見極め、相手のポテンシャルを引き出してあげられる存在が目指すべき像であるならば、そこに到達しようという「本質的な強さ」を持ちたいというお話でした。
違いを認めることから始まる縦横無尽、踊れ天地開闢って感じで今回は以上です。面白いと思って頂ければ幸いですし、SNSのフォローや高評価を頂けるともっと嬉しくなっちゃいます。ここまでありがとうございました。