解説

【RDR】ダッチという作品テーマを象徴している男を考察してみる

「俺たちの時代は終わったんだ」

この名台詞が語られる『RDR1』終盤、ダッチはかつての仲間も理想もすでに失い、無関係な部族(先住民の少年など)を扇動しつつ、荒れ果てた小さな革命ごっこに耽っていました。

ダッチはかつて無法の世界における義賊として、暴力に支配された世界で「理想」を唱えた男だった。彼の目指したものは、自由で、支配されず、国家にも縛られない“自分たちの共同体”だった。
彼の言葉には嘘がない。

だが――時代がそれを拒む。

よく語られるように“狂気の始まり”はブラックウォーターの事件だったとされる。
しかし、その兆候はアーサーとホゼアが懸念を口にしていた時点で存在していた。

年長者で知恵袋のホゼアは「お前は自分に酔ってる」とたしなめ、息子同然のアーサーやジョンは「俺たちはもう終わってるのかもな」と呟く。
にもかかわらず、ダッチはそれを聞こえないふりをした。

これが彼の最初の逃避であり、後のすべての破滅の原型である。

ダッチの振る舞いの違和感の正体について

ダッチの最大の弱点は、自分自身の正義を自分の内面から証明できないことです。
彼の「理念」は誰かに信じてもらって初めて現実性を持ち、意味を帯びる。

女性陣やスーザン・グリムショウは、チャールズやホゼアとは違い口答えせず、ダッチの指示に従い「家族としての役割」を担っていた。

つまり、「無条件にダッチを必要としてくれる人々」だった。
マイカのような自己本位の男でも、女性陣の排除を提案するのは生き残る術として合理的に見える中、
ダッチが彼らだけは最後まで残したのは、自分が“家族の父”でいられる最後の場だったから

母親役であるスーザンはキャンプの中で秩序を担う存在であり、同時にダッチの理想の「共同体」像の体現者でもありました。
だからこそ彼女がアーサーの側に立ち、ビルやマイカに銃を向けた際、その死は象徴的でした。彼女の死はダッチが守ろうとした“理想の共同体”の崩壊。
そしてその理想に従ってきた人々が裏切られ、消えていく瞬間を意味しています。

アーサー自身も決定的に語ることはなく、逆に「前は違った気がする…でもずっとこんなだったのかもな」と葛藤している描写があります。
この曖昧さは、まさに「誰が本当のダッチを知っているのか?」というテーマの一部でもある。

ダッチは頭を打って人格が変わったわけではありません
むしろ、それ以前から心の奥底にあった「世界を理想で動かしたい」という理想であると同時に傲慢さ。「誰よりも賢くありたい」という支配欲が、追い詰められた状況で露わになっていったと見るべきで、つまり、あの頭部外傷は「変化のきっかけ」ではなく誤魔化しきれなくなった焦りや本質の始まりを暗に告げてたもの。

プレイヤーや仲間たちが「変わってしまったダッチ」を見ていると錯覚している間に、
「ずっとそうだった」とアーサーがそう気づく瞬間こそが、RDR2の物語的佳境に至る構造になっている。

後年、ダッチが命を絶つことで示したのは“他人の手で自分の物語を終わらせたくない”という最期の自尊だった。
ダッチは生き延びる方法を模索していたのではなく、「自分の物語として幕を引く」場所を探していたように見える。ダッチはカリスマ性によって一座をまとめ上げていましたが、その実は「理念を掲げて導く」というよりは「慕われることで己の価値を確認する」人物でした。


ジョンとの再会と最期の「遺言」について

あの雪山の断崖で、ダッチはジョンに告げる言葉。これは過去であるRDR2本編内でもアーサーと共に憲兵団に追い詰められたときに口にしていました。

「パラドクスだよジョン、わかるか」

これは彼にとっての理想だった、自由で野生的な西部の生活の否定に対する「敗北宣言」ではなく“時代が自分を否定した”ことへの遺言のようなもの。
最後に自ら身を投げたのは、逃避というより、他人に自分を裁かせたくない。

自分という存在を“物語”として完結させたいし、理想を捨てたように見える自分を、誰にも見届けてほしくないという、自己神話の完結としての行動だったとも解釈できます。
つまり、ダッチの最期の選択は“生の放棄”ではなく“理想の物語からの脱落”を自ら選んだ瞬間だった。
それゆえに、ジョンにとっても、プレイヤーにとっても痛烈に響く。

理想が世界と衝突したとき、アーサーは変わることを選んだ。

病に侵されながらも、贖罪と救済を求めて自分の死を“意味あるもの”にした
ジョンもまた、家族と未来のために過去と決別しようとし、アーサーの意志を受け継いで生き延びて罪を償う道を選んだ。

だがダッチだけは変わらなかった。
あるいは、変わり方を知らなかった。

そんな彼が口にするこの言葉は、どこか自嘲的で皮肉まじりです。
納得や受容というよりも存在の空洞を言い表した言葉としての側面が強い。

これを実感していたRDR2の頃から、彼は自分の行き着く先を見据えてたのではないかという構図ですね。

ダッチは最初から“死に場所”を探していたのか?

『RDR1』での彼の行動を見ると、以下のような特徴があり、敗走しながら、過去の理想を断ち切れずにいる。無謀で支離滅裂な行動を取りつつ、「秩序への反抗」を形だけ貫こうとする。政府とピンカートンに追い詰められながらも、徹底抗戦せず、やがて山中へ退く。

これらは一見、死を受け入れる準備のようにも見えますが、意図的な自殺衝動というよりも、「終わるしかない」ことを薄々理解しながらも、止まれなかった結果に近い。

ダッチの“死”は、言い訳であり誇りでもあった

ダッチは最初から「死にたかった」わけではない。

だが、世界と自身のギャップが埋まらないと確信した時点で“物語としての死”を選ぶ覚悟はとうの昔にできていた。それは臆病な逃避でありながらも、唯一彼に残された“自律”の形だったとも言える。
彼は「過去の理想が時代に置き去りにされた象徴」であり、プレイヤーが“世界が変わってしまった痛み”を感じるための媒介でもある。

そしてそれはジョンにも負債を求めて文明世界は一生追ってくる。

どれだけ強い意志を持っていても、物理的な現実や宿命から逃れることができないのだ。

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