社会 解説 雑記

ネットで「目覚めた気になっている人々」のミーム的心理構造。情報の疑似学習がもたらす加害性について

無自覚な「破壊者」と化す現代人の構造

インターネットの台頭は、かつては支配的だったメディアへの批判精神と、自ら情報を探し、考える力を養う可能性を与えてくれました。
多様な立場や声が交錯するネット空間は、本来であれば相反する意見を摺り合わせ、より高次の理解に向かう「止揚(アウフヘーベン)」の場であったはずです。
これはドイツ観念論におけるヘーゲル哲学の概念で矛盾する意見や立場を単に否定するのではなく、それらを統合し、より深い真理へと昇華させる運動です。

しかし現実に私たちが目にしているのは、対立の激化と情報の分断です。
異なる視点に触れるどころか「敵を見出すこと」で自己を定義しようとする心理構造が目立ちます。
これは、自己肯定感の低下や社会的疎外感の裏返しとも言えるでしょう。
敵を作り出すことで、自分の立ち位置に意味を見出そうとする。
その構造にネット環境の偏ったアルゴリズムが加わり、私たちは“真実”ではなく“都合のよい敵”を消費しながら生きている状態となりました。

“反○○”を旗印に掲げることで、ネット上ではある種の優越感が成立する空間が拡大しています。芸能人や声優までもがこの空気に巻き込まれ「目覚めた」と発言をすることで拍手喝采を受ける。

近年では、有名人やインフルエンサーが次のような理由で「愛国的」「物申す系」のポジションに引き寄せられることが増えています。

  • SNSで炎上しても守ってくれる(擬似的共同体)
  • 愛国を謳うことで「世の中の流れに流されない賢い自分」を演出。
  • ビジネス的にもリスクを「正義」に転化できる(フォロワーの誕生)

つまり彼らが唱えている言説の本質は思想的主張ではなく、感情的優越感です。国家社会や共同体ではなく“自分自身への肯定感と承認欲求が脅かされている”という感情の表明でしかない。

そうして、その言動の本質は“覚醒”ではなく“他を踏み台にした承認欲求の発露”ではないでしょうか。

かつては権威への批判だった「ネットの知識」が、いまや「暴力的な自己正当化」に変化している。

そして情報環境では「分断と怒り」が最もバズること。
これによって理性・冷静・事実ではなく、敵味方を分ける構造こそが、最大のビジネスチャンスになっている。

真の危機は「議論の不可能性」と「構造の不可視化」

この流れで最も危険なのは「論争の構造」が可視化されず、
どの言説がなぜバズるのか?
なぜ支持されるのか?
という「二項対立」から抜け出したメタ的な分析がなされないことにあると思われます。

  • 議論の場が常に「敵か味方か」になり、相互理解の余地が消える。
  • 自分の信じる「真実」に沿った情報だけが信じられる(エコーチェンバー)
  • プラットフォームはそうした分断で収益を最大化する構造を黙認・利用している。

つまり、個人の意見が悪化しているのではなく、利用しているシステムの情報設計自体が“怒る人間”を生みやすい形になっている

だからこそ今、私たちは問うべきです。
その「覚醒感」は、誰を救い、誰を傷つけているのか?

「学んだ気になる社会」——知識が快楽になるとき

エコーチェンバーという言葉をご存知でしょうか?
SNSや動画プラットフォームでは、自分と近い考えを持つ投稿だけが届きやすくなります。
これは「安心感」や「共感」を得る一方で、異なる考えに触れる機会を極端に奪ってしまいます。

この状態のなかで流行したのが“疑似学習”です。
YouTubeやまとめ記事、保守系インフルエンサーによる配信は「わかりやすく、スッキリと断言する」構造によって、視聴者に“学んだ気”を与えます。
深い理解を伴わないまま「自分はもう知っている」という気分を与えるため、それを見続けるほど「考えない習慣」だけが強化されていきます。
「情報を得た」のではなく、「信じたいものを心地よく反芻している」だけかもしれない。
あなたは「目覚めた」と思っていませんか?
人は「学習している感覚」に強い快感を覚えます。
ネット上の情報は以下の点でそれを“疑似的に”提供してしまう。

  • タイトルだけでわかった気になれる(YouTube・SNS・まとめサイト)
  • 陰謀的内容ほど脳に快感を与える(脅威と安心の揺さぶり)
  • 他人より先に「真実」に気づいたという優越感が得られる

これは、実際には知識や理解を深めているわけではなく、快感を得ているだけ
まさに「学びのエンタメ化」が起きているのです。

そうして真に危機的なのは「自分が正しいという無根拠な自信」

これは、ポストトゥルース社会の最たる病理です。

  • ファクトではなく「共感」や「怒り」に根ざした信念
  • 訂正されても「都合の悪い真実だ」と拒絶する防衛反応
  • 対話を拒み、「敵/味方」の線を引き続ける

こうして、論理や経験の共有が不可能な「分断の壁」が生まれます。
つまり、情報の劣化は、社会的共感能力の劣化へと直結しているのです。

情報は「信じる先」を変えても、リテラシーがなければ変化しない

かつてマスコミの情報を鵜呑みにしていた人々を「情弱」だと笑っていたあなたが、今度はSNSやYouTubeの言葉を鵜呑みにしてはいませんか?
いわゆる「オールドメディア」を批判する言葉を覚えたとき「自分は真実を知った」と思ったかもしれません。
でもその“手応え”は、本当に思考した結果だったでしょうか?

あなたが信じている情報は、「考え抜いた末の結論」でしょうか?
それとも、「自分を肯定してくれるから気持ちいい」だけのものではないでしょうか。

批判ではなく「不信という新たな快楽」の誕生から目を背けること。それによって「誰かを排除することでしか保てない正しさ」は、もうすでに壊れ始めています。
「目覚めた」と思ったときこそ、一度立ち止まって、“なぜそう思ったのか”を疑ってみる勇気が、これからの時代には必要です。

アイデンティティのすり替え——承認欲求ビジネスの罠

近年の「愛国」や「保守」といった言葉は、本来の意味を失い“攻撃の口実”として消費されるケースが増えました。
差別的な発言や排外的思想も「本音」「正論」「日本人として当然」といった言葉で包まれることで、あたかも正当な意見のように振る舞ってしまう。

この構造に乗じて発展したのが、承認欲求ビジネスです。
自己肯定感を喪失した中高年層や孤立した若者に向けて「あなたは正しい」「あなたは目覚めた」と語りかけ、彼らの怒りや不満を利用しながら自分たちの活動資金の投資を呼びかけ、動画広告やらサロンや講座を売りつけていく。

そして、疑似学習による“知った気になる娯楽”は、この承認欲求ビジネスの燃料でもある。
なぜ私たちは知識を信じ込み、それによって自分を正当化するようになってしまったのか?
その背景には、現代社会が生み出した「成果至上主義」「効率信仰」「人間関係の希薄化」があるように思います。

深く学ぶ時間も、異論を交わす関係性も奪われ、短く断片化された「情報の断片」だけが氾濫する今、私たちは“情報の見せかけ”によって「知的に生きているつもり」になってしまう。

情報を消費することと理解することの区別が曖昧になり、やがて「知識とは快感をもたらす娯楽である」という誤った習慣にすり替わっていく。
そうして思考力ではなく快感回路を獲得し、自分だけが気づいているという誤った正義感と共に“優越中毒”に至る。

この認知の歪みを支えるのが、アルゴリズムによる「フィルターバブル」
そして「断言する言説」の心地よさです。

しかし、その心地よさが“あなたの思考”を腐らせているとしたら?
そう、“善意”の顔をした「敵意とマウントの商売の横行」が目の前で起こっているのです。

無自覚な加害性は、未来を壊す

こうした空気が蔓延するなかで、もっとも危惧すべきは「加害性の無自覚」です。
ネットで得た知識を“正義”として振りかざし、子どもにジェンダー観や歴史観を押しつける。異なる立場に耳を傾けようとする人間を敵であると「愚か」だと寄ってたかって断じる。

それはもはや“意見”ではありません。あるのは構造的な暴力だけです。

近年の「退職代行ビジネス」や「反権威系インフルエンサー的な投稿」が目立ってきたのも偶然ではありません。
これらは一見すると個人の解放や自立を助けるもののようでありながら、実際には“既存の構造を破壊することで成立するビジネス”であることが少なくありません。

そして、構造が壊されたあとの混乱は、次の世代にそのままツケとして回されていく。

無自覚な加害性:次世代や社会への危機

問題はこうした人々が以下のように「社会を蝕む側」に回ってしまう点です。

  • 教育現場や家庭内での言説汚染(歴史修正、科学否定、ジェンダー否認)
  • 選挙や世論における“怒り票”の増加(理性より感情が優先される)
  • 公的支援や社会保障への敵意(「自助こそ美徳」という歪んだ道徳観)

彼ら自身は「社会のため」「子供たちの未来のため」と信じていますが、
実際には 社会の分断を深め、次世代の判断力と想像力を削っている

バブル崩壊後の「失われた30年」は、後の世代にとってもはや中高年層にとっては自己責任を免れたいがための他責的言い訳としてしか語られず、後年から見れば「過去の幻想と自分自身を守りたいがための免罪符」にしか映らないのではないでしょうか。

「間違っていたら修正できる」という態度こそが、真に必要とされる存在であるという気付きとその努力を、我々は自ら忘れようとしているのではないのか。


まとめ:言葉とは武器ではなく「脱構築的なメタ視点の獲得と対話」のツール

偶然この文章を読んで、もしあなたが「自分も同じことをしていたかもしれない」と思ったなら、それは恥ではありません。むしろ、そこにこそ希望があります。
自分を気持ちよくしてくれる情報ではなく、「なぜ信じたのか」を問い直す習慣が、自己修復へと導く第一歩となります。
今求められているのは以下のようなアプローチで「どのように語られているか」を問い直す視点(メディアリテラシー+言語批評)
“対立の枠組みそのもの”を疑い、変化させるような新たな語り方や場作り。
そうしてインフルエンサーや情報発信者が「バズる言葉の裏にある構造」を自覚すること。

そして何より、いまネットを覆っている「対立構造」が、むしろ社会を停滞させているという現実に目を向けるべきです。

機能不全に陥り、感情論と敵対の応酬が制度を劣化させていった最近のアメリカの例は、決して対岸の火事ではありません。
アメリカでもすでに以下のような現象が起きており

  • トランプ主義における「愛国=分断と怒りのアイデンティティ」
  • FOXニュースなどがそれをメディアとしてマネタイズ
  • インフルエンサーが「愛国ビジネス」で富と影響力を獲得
  • 政治的停滞、制度的信頼の喪失。

ナショナリズム=自己肯定の代替物というのは
『METAL GEAR RISING REVENGEANCE(メタルギア ライジング リベンジェンス)』
というゲーム作品でも言及されてます。

某上院議員も己の信念を持たず、社会の規範や愛国心のミームに流されるだけの者について「国家と自己を同一化すれば自己研鑽は不要となる」と皮肉を口にしてましたが、時代を重ねる度にその言葉の重みが増してきています。

画像

本来、仕事や家族、地域社会の中でアイデンティティを形成できていた層が、構造変化によってその基盤を失った結果、「誇れる我が国」「伝統の美徳」といった抽象的な国民意識に自分を預けて安心を得ようとする傾向が見られます。

日本もすでに同じ構造に踏み込んでおり、情報空間の中で「感情」と「ビジネス」が一体化して公共性が溶解している

本来、生の充実や社会参加は現実との接触によって得られるべきものですが、現代のネット社会ではそれすらもエコーチェンバーの中で政治社会を取り込んで疑似的に補おうとする“人間の浅ましさ”がはびこっています。

疑似的な生の充足感にしがみついていないか?
その問いが、次の一歩につながる。

「無自覚なまま社会に害を与える存在になりかねない」
という認識は、まさに現代における知性と倫理の基盤です。

重要なのは「何を信じるか(What)」ではなく「何故どう信じるか(How)」が問われている。

無自覚な“手応え”の危険性を、言葉にして伝えていく必要がある。
感情を利用せず、言葉を武器ではなく「繋ぐための道具」として使う人間こそが、未来を変えると私は感じてます。

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