小説 雑記

何故「なろう」が流行りと批評を両立するジャンルなのか

乱暴な言い方をすると「雑でも売れるものと「面白いけど売れないもの」なら前者の方が良いという結論は

実は我々が生まれる前から出ているもので、自分が書きたいもの書いてる訳じゃなくて商売として売れるやつ書いてるという意味でも

今立派な文学扱いされてる『シャーロックホームズ』シリーズも読者の需要を満たそうとして描かれてました。

コナン・ドイル氏は見事病んだ模様。

おそらくこの風潮は何十年かは続いていくと自分も思っているのですが、その結果どうなってしまうんだろうという感慨もあります。

それを含めて、昨今の創作物の在り方、特にWeb小説やライトノベルについて少し考えてみたいと思います。

これを読んで頂いている作家および執筆を考えてる勉強熱心で優しい読者の方々には感謝を。

しばしお付き合いをお願いいたします。

何故作者は創作するのか

そもそもなぜ創作とかいう七面倒な行為をするのかという根源的なお話

作者が自分の裡にある伝えたい情報を伝えようとして言葉や絵を紡いでいくことが作品であり、

自ら想像力を膨らませ続けて生まれた物から、人の感情に訴えるというのがあります。

文学作品と呼ばれている物は、抽象的な世界や心理描写を言語化することが「文学的」だとして、多くの著名な文芸家の作品もそういったジャンルにあたります。

ただ、こういうクリエイティブの原動力って、どんなジャンルでも貴賤はなかったはずなのですが、

最初の話の通り、昨今の創作活動の原動力がやがて主体が作者自身だけではなくなりつつあります。

作者は、読者から受ける話を作ろうとした結果「表現を削れて売れるもの」を意識。

そんな中「Web小説」というものが生まれて、読者視点に比重が置かれる作品が並ぶようになりました。

インターネットによる情報発信が一方通行的なものとして、より多くの人に認知される手段の獲得も大きいと考えられますね。

「読者ウケ」から「内輪ノリ」へ

ホームズも間違いなく名作ではあるので、読者に応える作品が一概に悪いこととは言えないです。

問題は、作者自身の心からの悲鳴などから、誰かの心に何らかの価値が生まれたかもしれない「作家性としての可能性」よりも

読者たちの願望、需要を満たそうと「読者の為の作者」という関係性が求められるようになっていることです。

その結果、作者自身も読者視点でのお手軽な読み物であることを重んじて「求められていない描写」はなるべく省く結論に至ってます。

しかし、作品や物語、キャラクターそのものを多角的な視点から見ると、様々な捉え方をされかねない「広大な余白」が生まれるわけです。

これをあまり真剣に取り上げない、いわゆる作者と読者による「内輪ノリ」の作品としての姿が占めるようになり、

それがネットでの多数派の評価の声として名を上げて、アニメ等の別媒体でも形になってしまうという図式、

これが日本にて見かけられる「流行り物」に至るまでの変遷となっています。

「テンプレ」は通行証

「既存の世界観や設定」の延長線でストーリーを描いている作品が、アニメやラノベなどの主流になっていますね。

マスメディアのレベルに応じて流行る作品が変わるというのは、音楽も映画も同様です。

テンプレがあるからこそ受け手はついていこうと思えるわけで、真新しいものが評価されるというのは本当に時間がかかります。

死後に評価されることを、喜べるクリエイターさんがどれだけ存在しているのかって話です。

ただ、それが作品の原動力の全てになってしまうと、エンタメというものが「身内ノリ」そのものに変貌してしまいます。

やっていることは上司に付き添って行くゴルフの接待プレイみたいなもので

不快な思いをさせないという確約を示すことが、作者に対する読者のニーズとなっている部分はあると思います。

一緒に寄り添って作品を盛り上げるっていう意識は確かに大事なんですけどね。

ただ、それは読者がいかに作品を愛するかというよりも、コンテンツを「優先的に消費する」ためのアピールが目に映っただけの姿勢であり

作者側も溢れているコンテンツの一環として「消費されるための工夫」になっているのは勿体ないことだと感じます。

テンプレに従っても、遅かれ早かれ飽和していくコンテンツの中で埋もれていくことは確かであり、

それを果たして本心から望んでいるのかという葛藤は、本気で物作りに向き合いたいクリエイターにとって避けられない事態だと思います。

作者と読者は同じにはなれない

そもそも本気で作品作りに向かい合おうとすると、何かしらの喧嘩や衝突は避けられなくなると思います。個人的な意見ですが。

日本は顕著ですが、争いや対立をあまり好まないので、問題提起のために自ら主体的になることより、受動的にそうなることが非常に多いです。

たとえば既に有名な作品に対する「批評」でよく見かけることだと思うのですが

ラノベやWeb小説が原作の作品がアニメ化すると、原作小説で「一人称視点」だった時には描かれなかった要素や、文字だけでは目に留まらなかった色んなアレコレがアニメといった「三人称視点の媒体」だと、否応なしに目立つようになってしまいます。

いざ放映された内容から、文字だけでは粗削りだった要素が浮かび上がると、仲が良かったはずの作者と読者は喧嘩を始めるわけですね。

視聴者視点では、せっかくの映像化なのに満足の及ばない仕上がりにさせた作者もしくはアニメ制作側の怠慢であり、

作者視点では、三人称などの作品を煮詰める要素よりも、わかりやすさを良しとしていた読者側の怠慢であると。

でも、これって誰が悪いのか、作品に期待してた人が悪者探しを一度始めてしまうと

部外者から見たらここまで持ち上げてきたお前ら両方だってなるわけです。

目に留まることがすべてか?

こういった第三者の目を気にしないで突き進むにしても、作者と読者が一心同体に寄り添おうするほど、作品としての底が浅く見えてしまうのはおそらく必然だと思います。

しかし、今のコミュニケーションツールですら短文が求められており、本質的に面白さとは何か?を自ら追及する心は失われつつある中。

抗いがたい世の流れの一環という事なのでしょうか。

こうして実存するこのジャンルもまた「飽和していくコンテンツ量とスピードに追い付ける手段」として、一番適応した形でもあるのだろうとも思います。

無料で手に取れるWeb小説という執筆の敷居の低さも嚙み合って、需要と供給が成り立つ以上、そこには確かな価値はあるのでしょう。

ただ、より良いモノを作りたいというクリエイターに閉塞感を与える環境でもあり、編集や出版社、アニメ業界も諦めムードなのかわかりませんが、もう少しできることを増やした方がいいのではないかという複雑な気持ちはありますね。

次回はキャラクター・世界観などの創作における詰め方について少し語りたいと思います。

何かしらの参考や一考に繋がる内容となれれば幸いです。

ご意見ご感想があれば承りますここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。

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