「命」と「自分であること」の狭間で
『サイバーパンク2077』は、ただのSF作品ではない。
それは「ナイトシティを生きる」伝説を築くことであり「死を知りながら生き抜く話であり、そして「何者かになることを選ぶ」物語である。

主人公のVという人物は、始まりの時点で既に死の宣告を受けている。
RELICによって身体が蝕まれ、元ロッカーボーイのテロリストであるジョニー・シルヴァーハンドの意識が内部から侵食してくる。この極限状況の中で、Vが選ぶ道――それは常に自分とは何か?
“誰の人生を生きるのか”という根源的な問いに突き動かされている。
本編における「終わりの選択」と象徴性
『The Sun』――頂点に立ちながら燃え尽きろ
Vが裏社会の頂点に立ち、ジョニーを消して自分の生を全うしようとするエンディング。Vがナイトシティを掌握する“勝利のイメージ”が得られる。だがそこに待っているのは、かつてのナイトシティの王たちと同じく“何者かに成り上がった者の孤独”である。
「ブルーアイズ」の存在が象徴するのは、人間を超えた意思と資本。その力にすがった時点で、Vは“自分自身の命”を失っていく過程に踏み出している。
ナイトシティの頂点に立とうとも、何者かに利用されてしまうという抗いがたい街のシステムに立ち続けるという選択。
真の解放というより、より大きな檻に入る印象でジュディがついていけないと語るのはそういう意味もあったのだろう。
『The Star』―― 受け入れるための旅立ち
パナムたちとの信頼関係が強調され、Vが“戦いではない人生”を得ようとする。そうして共に街を去る選択は、愛と共同体に身を委ねる道であり、命の終わりを“看取ってくれる誰か”と共に迎える選択でもある。
だがその裏には「ナイトシティとジョニー」という物語の二大要素との決別がある。Vの寿命は依然として解決しておらず、ただ場所を変えるだけにすぎない。

命の試練を越えられなかったVは場所を変え、むしろ癒しを選ぶことで“残り僅かな生を肯定した”とも言える。
『Temperance』―― 自己ではなく、他者を生かす選択
このエンディングで主導権を得るのはジョニー・シルヴァーハンドですが、それは「ジョニーが勝った」ことではなく「Vが諦めて去った」わけでもないという点が本質的に重要です。
むしろそれは――Vが命をかけて繋いだ人間関係を手放し、自己をも超えて誰かに未来を託す決断。
ナイトシティという欺瞞と暴力の象徴からジョニーを解放し「本当の人生」を探す旅路に送り出す“死と再生”の寓話的選択だと解釈できます。
ジョニーの再生が描かれる。しかし、肉体をジョニーに託し、自分はデジタルの海に消えるという衝撃の選択。
ジョニーは「過去から逃げていた」と認めながらも、最後に“地に足のついた現実”を生き直す。
ここには「大義」に殉じたかつての自分と決別する、ジョニーの成長が描かれている。
ナイトシティという自分を苦しめた場所を“否定することで支配し合う”のではなく、受け入れて超えるという「和解」に近い心情が込められている。
そしてVは、最期に“選ばれた他者”を信じるという“静かな自己犠牲”を遂げるのだ。
“誰も救われない世界”の中での「希望」の定義
『サイバーパンク2077』のすべてのエンディングに共通しているのは、「完全な救済」は存在しないという構造。
- 「The Sun」:Vが表向き勝利するが、死は近い。
- 「The Tower」:生き延びるが、すべてを失う。
- 「The Star」:仲間と共に去るが、それも逃避にすぎないかもしれない。
- 「Temperance」:Vは消え去るが、ジョニーが“人間としての第二の人生”を得る。
この中で「節制」が特別だと筆者が感じるのは「誰かが生き直すこと」に意味を置いている点です。
ジョニーは初めて「破壊」ではなく「創造」へ向かう。
Vは「生きること」ではなく「誰かに生かすこと」を選ぶ。
これは二人の魂が、ようやく戦いではなく、信託によって未来を繋ぐという選択にたどり着いた瞬間。
命を守るために心を売るという悪魔エンドもありますが、あれはV自身の楽観視した故に「何を失っても、自分が納得できる意味を選べ」ということで誰よりもV当人が悔いを残してしまいながら帰還をするか、神輿に残る。
そうしてプレイヤーがVとして選び取った意味が、どんなに不完全でも“その痛み”こそがサイバーパンク世界における誠実な生き様なのだ。
DLC『Phantom Liberty』と「選べなかった人々」
DLCで追加された新たな物語では、延命の可能性と引き換えに、人間の尊厳が暴かれる。
ソングバード という「欲望を書き換えられた鏡写し」
ソングバードは自分の意思で自由を選んだように見えて、その実“何者かになることを強制された存在”である。
彼女を救えば誰かが死に、かといって彼女を止めれば彼女自身が壊れてしまう。
プレイヤーが彼女に「楽にしてやる」ことを選ぶのは“解放する行為”であり、その後味の悪さこそがDLCの核心にもなる。

リードという「正しさ」を貫くことで、すべてを失った男
リードはずっと「彼女を止めれば救える」と信じていたが、その信念が彼女を壊してしまう。最後に彼が「お前が正しかった」と言う時、それは“正しさが他者を救うとは限らない”という痛切な後悔に他ならない。
彼の孤独な背中は“選ばなかった未来”への挽歌である。
そして、それは当人が語ったようにジョニーの鏡写しでもあった。


DLCエンディングでのV――生き残った者の“喪失”
「The Tower(塔)」エンディングは、まさに“プレイヤー自身のために残された唯一の現実的選択”であり、同時に「誰かを犠牲にしてでも自分だけは前に進む」という痛みを突きつけるもの。
このエンディングの意味と、開発陣がそこに込めた可能性のある「選別」の意図を掘り下げる。
Vが大統領の力を借りて命を救われる一方で、ジョニー・シルヴァーハンドの人格を排除し、仲間たち――さらにはナイトシティの伝説と共に築き上げた「繋がり」を捨てて、延命手術を経ても「二度と戻れない身体」となり、ナイトシティの輝かしい舞台から静かに退場する。
その後日談では、かつての仲間たちが皆どこか遠くなっている。
Vはついに命を手に入れたが“かつての自分”を失ってしまった。
それは“生き残る”という選択が、時に最も苦しい選択であることを教えてくれる。
『塔(The Tower)』誰にもならなかったVの末路
『Phantom Liberty』を経て追加された“最も救いのない”とも評される『塔』エンディング。
ここではVは手術を受け、ジョニーは消去され、仲間とも決別して「延命」だけを得る。Vが自分の命を選んだ代償に、自ら築いた人間関係を壊して“英雄”や“義賊”ではなく“生き残っただけの人”になる。
この構造は、「ヒーロー譚」や「ロールプレイ」のカタルシスを否定するような演出になっており、意図的にプレイヤーの自己同一化を壊すための演出だとも解釈。これは「何者にもなれなかった」Vの姿であり“ナイトシティの一部”として生き残った者の物語である。
家族も友もいない、ナイトシティの中でのモブ役、つまり“名前のない人間”というこのエンディングは、まさに『塔』という名にふさわしい“神の座”に近づいた者が、最終的にすべてを失って崩れ落ちるという崩壊のメタファーでもある。
ソングバードやリードが救われない結末を迎えること、またジョニーが消滅することには、ある種の倫理的な選別のニュアンスが含まれています。
ソングバードは「国家の道具」として扱われ、彼女を救えばリード諸共犠牲にし、彼女を壊す道となる。リードは忠誠のためにすべてを見捨てた男として矛盾に耐え続け、報われない立場に位置し続けるので「生きていけない」
ジョニーは「理想を語りながら他人に破壊を強いた男」として、Vが自分自身を選んだ瞬間に切り捨てられて不要とされる結末となる。
これは単なる悲劇ではなく「誰かを救うことは、別の誰かを見捨てることになる」という厳しい現実の再確認。
開発陣がこのような構造を選んだのは、プレイヤーに「自分の選択で誰を犠牲にしたか」を突きつけるためであり、それが選別的に感じられる理由。これはCD Projekt Redの物語設計における重要な哲学でもあり――救えなかった誰かの影を、ずっと背負って進む。
それが『サイバーパンク2077』が描く“未来”における、最も人間的な命の重さなのだと思います。
英雄ではなく“選び、背負った者”として生きていく物語。
選ばなかった結末にこそ、「人間の真実」がある
どのエンディングにも「絶対的な勝利」や「ハッピーエンド」は存在しない。
だが、そこには
“誰かを信じること”
“命の重みを選び取ること”
“誰かの未来を託すこと”といった、
プレイヤー自身の“価値判断”が反映された選択が残る。

『サイバーパンク2077』が描くのは、サイバーパンク世界での人間の尊厳と、選ぶことの重さだ。
“あなたがVをどう生かしたか”が、すべての問いへの答えとなる。
