リーガルハイの5話を何気なく見直していたので、ふと思ったことを少し述べてみてます。
コロナやら世界情勢の近況も踏まえての感慨もないと言えばウソですが、お付き合いいただけると幸いです。
弁護士ドラマを通した憂国
久々にドラマを見返して思っていたのですが、やはりこの回の印象が強かったので、少し言語化してみます。
本来このドラマって、依頼人の無理難題を解決する破天荒弁護士の話で、依頼人の人格破綻ぶりやら抱えている問題に切り込んでいくのですが、第5話の政治家の話は主題が「依頼人本人」というより「政治家」そのもののように見えますね。
政界のシステムについて切り込んで、人脈を失った大物政治家の末路を描いているのですが、主人公である古美門先生曰く
「金」と「権力」は表裏一体。金があるところに力が集まるものの、金を集める者を金を求めている市民は忌避する。そうしてクリーンな標榜を掲げたものの何もできない力なき政治家を見て、同じ国民がそれを嘆く。
一応、依頼人の問題は解決はしたのですが「収賄」と「政治」は切り離せないものとして割り切っており、国民に根付いてる意識問題にも明確な答えを見出さなかったのは、昔見たときにも印象深かったです。
乱暴に言うと、政治家以前にそれを監視するはずの市民の質が問題なんだって結論でしたからね。
民主社会の変容に対する危惧
いったん歴史のお話になりますが、民主制の起源とされるギリシャの七賢人の一人として数えられるソロンがいます。
彼は貴族と平民のいずれかの側に立つことなく、民主政が正しく運用されるために尽力した人物ですが、人気取りの政治よりも実を取ることから敵も多く、アテネを去ってしまった為政者でした。
ソロンの出現により民主制の磁石は築かれたものの、彼の危惧した通りに僭主政治による「人間の都合」に国が左右される事態は、現代でも当て嵌まることでもあります。
ソロン曰く人間の為だという人を信じてはならない。
これすごい言葉ですよね。
まさにクリーンな政治を標榜する政治家とそれを信じる存在に向けた警句です。
絶対的価値観から相対的な社会へ
元来、議会政治とは国王の意思決定の抑止のために産まれたもので、人間の善心、良心に基づいた国家運営が根付くことを目指したものです。
しかし、かつての王政や宗教のような絶対的な価値観が築かれていた時代から移り変わり、その頂点に人間が君臨するようになったことで、それらの抑止として足り得ていた民主主義もまた変容することとなりました。
国民が選挙のような参政権によって投票して国家は成り立つという「国民一人一人から国家が成される」という古来の民主主義社会の唱えた政体でした。
今は古来と違い、社会は神や王などの不在によって、民衆の価値観によって動くこととなります。そういう意味では日本も天皇の存在があった以上、民主主義の成立の歴史を辿ってみると未成熟な国家ですね。
現代でも若者が選挙に行かないことは、自分たちの首を真綿で締めていると、海外では俳優などの多くの著名人が投票を呼びかけるCMがあります。しかし現代の民主主義社会における国家の姿、例えば日本では国民が国家の一員であるという自覚よりも、何かしらの庇護を受けるための受け皿が国家であり、傘であるのだという認識が非常に強いです。
これは個人レベルでも同様で、学校や会社という組織に属していることに大きな価値を置き、その恩恵を受けながら居場所を見出す生き方が美徳であるというような意識が根付いています。
むしろこういった姿勢だからこそ、恩恵をもたらすはずの受け皿である組織、政府や政治への関心が高まると意見をする声が強いです。
時には失望感が勝って選挙にも行かなくなるという風潮も強まってしまっています。
過去の歴史をたどって元を正せば、我々が参加している組織も一人一人の構成員から成り立っているもので、国家もそれは変わりありません。
トップダウン型の組織運営に慣れてしまっていると、不本意ながら従っているという認識ではありますが、自分たちが招いた結果でしかありません。
私たちが既得権益を嫌い、力という名の金を集める者を袋叩きにする一方、人の為と語られるクリーンな政治も結局はまた、誰かしらの既得権益に繋がっています。
そもそも、金に何の力も無ければ金に汚くなる必要もありません。
それは政界も同様で、そこから抜け出すことはあり得ないので、せめて「誰のために」利益を還元できるかという全体のベクトルを修正することが、権力を監視する市民の役割なのだと思います。
であれば、国民の選挙に対する姿勢が肝要になりますね。
参政権への国民の自意識
そもそも、民主主義=共和制というわけではなく、何かしらの民衆による革命やデモなども歴史上では取り上げられています。
また、立憲君主制もまた民主主義であり、国民の声に応じて国家が姿を適応させて運用される社会形態が民主主義であり、昔と比べて行動を起こす気概を持てないほどの無気力さが蔓延しているのが現代です。
しかし、こういった私たち市民が選挙の投票をどう捉えているかというのと、為政者側の視点では異なっています。
選挙投票の意義と視点の違い
たとえば、仮にどれだけ規模の小さい候補であろうと何かしらの主張が支持を集めた場合、より大きな派閥がそれを取り込もうと、同じ主張を掲げるようになります。候補者の掲げる言葉は聞こえのいいだけの体裁という声もあります。
それにも一理ありますが、結局、彼ら自身は得票数を得るために「どんな主張によって支えられている層があるのか」という数字目的のために、それを自ら取り入れる必要があります。
その果てに当選できたのであれば為政者となった以上、そこに至るまでの過程から身勝手な振る舞いの制限に繋がり、国民の投票が彼らの土俵を左右するに足る権利や義務以上の「アピール」として意義があるということ。
これは我々市民が獲得できていない視点です。
私たちは「どの党の誰が当選するか」ということに目を向けています。
どの情報メディアでも政党や個人の一騎打ちとして放映していることも原因で、認知上ではアイドル投票と変わりありませんし、その方が分かりやすい図式だからです。
この繰り返しの中、政治を施行する者たちは別の視点から結果を見守っており、民衆は気付かない一面から彼らに影響を与えられます。
逆を言えば、それに気付かないでいてくれることが、一部の政治家にとっての願いなわけです。
「老い」と「変化への恐怖」は付随する
単純な話、もし今苦労している若者が年を取って世代交代をし、旧来の方針が取って代わられ、次の若者世代に重きを置いた政策が施行されたとき、不平不満が出ないなんてことは絶対にありません。
「自分たちの時が苦労したのだからそれを知るべき」と同調を迫ることも、否定しきれません。
作中の古美門先生の言葉通り、今はまさに力なき政治家を見ながら世を嘆いている身内同士で、何かしらの仮想敵を設けて「憂さ晴らし」をしている状態です。
逆に言えば、今はそれだけで済んでいますが、いつか自分が自らの保身のためだけに変化を忌避してしまう人間になってしまっていたら、それこそ疎んじてきた政治家に厄介な存在となり、古美門が黛を評したような無自覚な愚民となってしまいます。
己が老醜を晒さない自意識の形成に至るのか否か、何かしらの変化に対してアグレッシヴな姿勢を示すこと、声を上げるかどうかは既に選択を迫られています。
少しはマシになるために
単純にボランティアの寄付などでも集まってる金額と同じように、選挙の一票に価値を見出す意識改革は、学校教育でも必要であるのではないかと思います。
ただ税金然り、教育機関では教えるべきことの優先順位が受験に見出しているため、本当に抜け穴ばかりの世になりつつあり、それを市民側から指摘することが難しくなる事態は避けたいですね。
気付きを増やす機会を設けられる場があればよいのですが、今のインターネットもインタラクティブ(双方向)なものとはかけ離れてしまってます。
世がそういったツールとしての認識が強い以上、自分たちが少しはマシになる為にはどうしたものかと思う今日この頃です。