皆さんは「優しい人」というのが、どんな人か考えたことはありますか?
もちろん、この定義付けには様々な意見があると思います。なので、視点を変えてみましょう。
「どんな人間」が「優しい」と呼ばれているのか?
人間社会というのは「絶対評価」ではなく「相対評価」です。
そうなると当然、他者と比べられる中で「厚遇や優先措置を施される者」の存在が生まれます。それが「冷遇」という可能性も然りです。
つまり、たとえ特定の誰かには優しくなくても、それ以外の全員に向けられる優しさがあれば、その人に対する評価は「優しい人」になります。
一般的に呼ばれる「優しい人」というのももちろん人間ですので、好きなものや苦手なものだってあります。しかし、たとえ道傍で転がっている人にも自分は手を差し伸べるだろうか?
優しくするのに値する相手か、という「掛け値」無しで人を助けたり優しくすることはできるか?
ここから辿り着く結論は、「優しさ」というのは誰彼構わず無限に湧き出すものではなく、有限のリソースです。
「優しさ」の「有無」を問うのであれば、
ぶっちゃけおそらく人類が持ち合わせているものです。
認めなければならないのは、その優しさは「偏在」してどこかの誰かを選んで向けているということです。
「優しさ」の使い道を人間は無自覚に考えている
優しさを分け与える対象も、それを喜ぶ相手に与えることが前提にある人もいると思います。また、自分を好いてくれるためになど、見返りが大きそうな人にリソースを割くこともあるでしょう。
上記の考え方は学校社会が一番実感に近い経験になると思います。
僕自身も幼い頃から転校やら進学先の違いなどで、新しい環境に馴染むことを身に叩きつけられてました。ですので、こういう経験に基づいた心にあったのは、子供時代であろうとも何より必要なのは「自分の存在価値を示す」という強迫観念に駆られていたのも正直あります。
白紙の状態でリセットを繰り返していた外様だからこそ、既に出来上がっているコミュニティ内外での優しさの偏在は強く意識させられました。
おそらく大人も子供も大差ありませんが、形成された社会の中に溶け込む以上、自分にとって何かしらの優位性獲得や損得勘定によって慎重に見定めているのも、それが自己の幸福の拡張に繋がるからです。
確かに、誰に優しくするか自由は個人に委ねられています。
しかし、それは「優しさ」を集められる人と与えてもらえない人の二分化を推し進めることにも繋がるようにもなりました。
やがてそれは、「いじめ」などの形で特定の誰かを歪ませる要因にもなりました。
優しさの忖度によって起こる分断
豊かさを持つ人同士だけで集まって暮らしていくことは、たしかに快適で幸せなことです。しかし、それによって不利益を被る人間のことをどう受け止めるのか?
閉ざされた世界を選んでしまってる以上、見て見ぬふりをすることが第一の選択肢になります。
また、己の欲やエゴを自覚せず、押し付けた優しさによって他者と関わりを持つ人間もいます。
彼らは友情や優しさをエサにして親しくなった誰かをダシにして、自分が話題の中心にいるという優越感を味わいたいがために噂話などを流布してしまうこともあります。さらにエスカレートすると、SNSを通じた情報によるマウントやイニシアチブの掌握による晒し行為などが、本人の自覚を問わずに被害者にとって、いじめという形にもなりかねないということです。
これらのように、老若男女問わず人間は、自分の便益を最大化することにおいて生じる不利益や犠牲には視野狭窄となっており、もはや躊躇いを感じなくなっています。
今の世の乱れには「優しさ」の偏りが影響している
社会において、他人と比べて相対的に自分がどんな位置にいるかを測ることを人間は無意識的に習得しています。
優しさというのは「偏在」してどこかに向けられているものです。
それが「与えられない自分」に苦しんでいる者を助けられる手段は、手を差し伸べることでしか有り得ません。しかし、事が起きてしまった後にそれに気付いてしまっては意味がありません。
今起きている犯罪や事件の中には、「誰かの優しさの在り方」が原因で引き起きているものもあるでしょう。
誰もが加害者に成り得るという危惧は、もはや必須となっています。
しかし、それはおそらく今の社会において面倒かつ考えたくない要素でもあります。他者を愛したり優しさを分け与えるという意義を、今一度誰もが真剣に考え、受け止め、より良い思考や行動に導こうとすること。
重いという言葉で切り捨てられがちですが、必要であり大切なことです。
それは国力として、世をより良くするための力にも成り得るものだと筆者は思ってます。
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