本記録におけるこの一夜は、その後の人類の歴史を決定付けた一つの事件であったことは、私も認めざるを得ない事実だった。
とはいえ、そこにある事件そのものが重要であったわけではない。
重要なのは彼らの出会い、それがもたらした影響である。
もしここでフォスターがA-01に抵抗できなければ、恐らく彼は注目に値しない存在として秘密裏に処理され、人工心肺による蘇生処置を受けることができなければ、移ろいゆく時代の潮流に埋もれてしまった死者の一人となっていただろう。
国家に属する軍人と企業の私兵、それぞれの兵士として理想的サンプルが対面し、ARKを牛耳る代表の捕縛、並びに暗殺を阻止する立場に立つことは、彼らの行く末のみならず、世界にとって大きな分岐点となった。
本章に於けるアレン・フォスターは特に旧国家に属した人間でありながら名を馳せたという稀なサンプルであり、現在残されている当時の資料にこの名は幾度も登場している。
正義感と責任感が強い人格者で、思考に硬直性が見られ大局観に欠けるきらいがあったが政治的野心が無く、最低限の政治的センスと戦場を生きる上で培った交渉能力と柔軟な思考能力を彼は持っていた。後の時代において彼を評する際に人間離れした所があるとするのであれば、人外の思惑や能力に対抗できるほどの強靭な精神力、経験に基づいた生存本能、生き残る幸運に恵まれていたことが直結しているだろう。
やがてARKの公職に就いて運営に携わるなど、当時の彼に未来が解った筈が無い。
そもそもARK———海底プラットフォームを生活圏として開発したのはいいが、すでに国家の機能すら吸収しつつあった多国籍企業体にとっては頓挫した計画の産物であり、なんら注目にするのに値しない存在だった。
国連の要請によって地上の難民や亡国出身者、あるいは政争の敗者が集まった寄り合い所帯。この構造は企業の支援による物資を弱者に分配する形であり、その対価として海底都市としての採掘した資源の交易などを半強制するために築かれたものだ。
海底に築かれた以上、何の生産性も持たない難民を抱えたまま何かを生産しようににも限界がある。人間は神になれない以上、自ら無い物を生み出す事はできない。
数十人、百人辺りまでは良かった。だが、千を越えた辺りから来る者は拒まずの姿勢で門戸を開き続けた必然として腐敗が進んでしまった。そして、市民の中で当初の理念に興味を示す者はもはやいなくなっていた。
人々は自分達のこと以外への関心を失い、ただ目先の安定を享受するのみとなっている。仮にも民主主義を掲げた社会システムに参加していながら、民衆には怠惰が蔓延し、当初の理想である自立と克己などは望むべくもなかった。
経営がある程度軌道に乗ると思われた時点においても、政治と個人双方の腐敗と各派閥による政争が急速に進行してテロが相次ぐようになり、その果てにクーデターを起こすまでに至っていた。
逃避、そう、誰もが逃避したがっている。
それが人類の総意、人類の切望だった。
与えられた玩具と共に空想の中へ逃げ込み、嘘偽りの安寧を保ち続けることが。
だが皮肉なことに、一介の兵士に過ぎなかったフォスターの存在は、国家群と同じ経緯を辿りながらも流血をもって瓦解させて外敵を排除した者が、清廉な新たなる秩序を作り上げるという歴史の正しさを証明することとなった。
勿論、当時誰もそれを知る由はなく、来るべき破滅は未だ歴史の陰に隠れ、彼らの前に姿を現すのは先である。
———セント・グレイス著『赤の書』より一部抜粋。