深夜の闇に包まれた海上プラント甲板には、細い絹糸のような小雨が降っていた。曇天から落ちてくる滴に施設全体が打たれている。
「トイレでも探してるのか」
その雨の中で帽子を目深に被りながら、スーツで身なりを整えていた男はその姿に似合わぬ身のこなしで背後を振り返る。懐から引き抜いたオートマチック拳銃を向けている敵意に満ちた相手に、声の主であったアレンは眉を軽く上げた。
「……違ったようだ」
※ ※ ※
歴戦の強者であったはずの男たちは危機に陥っていた。
過去の勝利や成功によって築き上がった自信と自負。しかしそれは、弱者に対する隙を見せていたことと同義だったかもしれない。
巧みに隠れながら男たちは目標への距離を縮めていたはずだった。だが同時に苛立っていたのも確かだった。
通常、物資などを搬入する下層部の出入り口からの侵入ルートを検討したが、事が上手く運ばずに時間を浪費していたこと。
目標が視界を横切った瞬間、狩人としての本能が先行したことは否めなかった。狙うべき獲物の姿があまりにも頼りなく、ここまで簡単な仕事はない。そして、正規の教育を受けた自分たちが遅れをとるはずもない――と。
そうして、彼らは気付くのが遅れてしまった。
この地で警戒すべき敵の正体を。
※ ※ ※
「……軍人なのか?」
「あんたもな。ただの軍属ではないだろう。ここにいるからには理由があるはずだ」
男は銃口を向けたままじりじりと後ずさろうとする。
「また、それか」
整った顔をしかめたアレンは溜息をつき、両手を空にしたままゆっくりと歩み寄った。
「……買いかぶらないでくれるか。仕事でドジ踏んで厄介払いされただけだ」
からかうような軽口に、男は睨みつける。帽子の陰から厳しい光を湛えた眼差しが真っ向からアレンを見据え、低音の声が鋭く響いた。
「お前にわかる限りでいい、ここの情報を明け渡せ」
銃を突き付けたまま近くに寄ってきた男に彼は口の端を上げる。
「……警告しておこう。ポケットの中身を漁るなら人にやらせた方がいい」
銃口の前から身体を翻し、拳銃を構えた男に瞬時に接近すると銃を構えた右腕を上に向けて無力化する。
力の抜けた男の手から銃が落ちる。すかさず拘束を解きながら構えを変えたアレンは身を沈めた姿勢から相手を蹴り飛ばし、そのまま銃を拾い上げてバランスを崩した相手の太腿を拳銃で撃ち抜く。
そうして、男が崩れ落ちて呻く間も与えずに顎を膝で一撃し、脳震盪を起こさせた。
「なんなんだ一体……?」
血を流して起き上がれずにいる男のそばに片膝をついた。
※ ※ ※
身を乗り出して小銃を構えた男の一人が、目標の姿を捉えようとした瞬間、血飛沫が男の視界を遮った。
それが自分の腕から吹き出したものであることに気が付き、即座に攻撃を浴びせた敵に対して銃口を向ける。
だが、引き金を引くより早く別方向から殺到した銃撃が、男の頭を横合いから吹き飛ばした。
なぎ倒されるようにして地面を転がった仲間の姿に、他の男が咄嗟に反応したのは、兵としての経験の業だったのだろう。
そうして周囲を警戒して身構えると、敵の姿が近づけば近づくほど鮮明になっていく。
それは、招かれざる場所からの使者。
全身を覆う防弾加工の装身具、アサルトスーツにガスマスクを装着した長身の男の姿があった。
「誰だ! 何が目的だ!?」
だが、目の前の死神は答えない。答える必要がない。
歩みを進めている黒い影。
自分に真っ直ぐ向かってくる得体の知れない存在感に、大声を上げてしまった男は、本能に訴えかける恐怖心に負け、逃げ出そうと衝動的に思わず反対側に駆け出してしまう。
同時に、あっという間に追いすがられる事を想定した彼は、いざとなれば得物で狙いをつけようと背後を振り返る。
だが、狩人は獲物の目前へと既に迫っていた。
その時、右足に激痛を感じた――。
男は己の足に刺さっている鈍く銀色に輝いているナイフを視認しつつ、コンクリートの床に倒れ込んだ。
※ ※ ※
さしたる緊張や狼狽もなかった。
相手方から歯向かってくるというのは、こちらとしては探す手間が省けたという感慨しかない。だが、あえて見せてやった隙に警戒したのか、予想よりも時間は長くなってしまった。
そうして捜索範囲を広げようと判断して、曲がり角から不意に見知らぬ男が拳銃を携えて現れた時には少し驚いてしまったが、それは相手も同様だ。
その隙を見逃すまいと、すぐさま思考を切り替える。
男が持つ拳銃の引き金にかけた指に力を入れるよりも早く、鋭い手刀を腕に叩き込む。反射的に引き金が引かれた銃弾は顔ではなくプラントの外壁に穴をあける。さらに、腰を低く落とした姿勢から相手の上半身を蹴り飛ばす。
姿勢を崩した男は横様に現れたこちらの姿を捉えたようだが、遅すぎた。
「お前はっ——!?」
そして、踏み込んだ震脚が甲板の床を雷鳴のように打ち鳴らされる。
ギリギリの反応でアレンは上半身を後ろに傾けて、轟然と振り上げられた右脚が目の前を掠め過ぎる。
だが、何らかの行動を取る間もなく、長身を折り畳むように黒い影は彼の左横に瞬時に接近していた。
屈んだ体勢から、拳で腹を殴りつけ、迸る閃光のように左右の足で蹴り上げてくる。
両腕でそれらを受け止めるも、防御の姿勢が遅れたアレンは、そのうちの一撃をもろに食らい、肺や胃にまで達する衝撃で呼吸を詰まらせる。
「っ――?!」
数メートル後ろに吹き飛ばされただろうか。
彼の身体は転がってしまうも、床に叩きつけられる前に姿勢を整えた。
身体を丸めて衝撃を緩めつつ、先程倒した男から回収したサバイバルナイフを腰のベルトから引き抜く。
ガスマスクの男の右手もまた腰の鞘から大型の銀色のナイフを引き抜いていた。
刃先が素早い軌跡を描きながら、反射的に身を庇った腕に絡みつくように襲う。
次の瞬間、アレンの右腕から血が零れ落ちる。
飛び散った血が地面に落ち、あっという間に吸い込まれる。
スーツが所々切られて赤黒く染め、苦痛に顔を歪ませながらも、アレンも反撃に打って出る。
立て続けに閃くナイフの連撃。
負傷して動きそのものが幾分か鈍っている。
だが、そのうち数撃は明らかにガスマスクによって狭まっている視野の外から斬りつけたというのに、まるで見えているかのように相手は捌いて防ぎ通した。
「やるな」
マスクからまだ余裕を窺わせる低い声を漏れる。
「っ……!?」
すかさず、相手を切り裂こうとナイフを連続で振るがそれも受け流される。
刃先が宙を切り続けて業を煮やしたのか、アレンの腕がこれまでより僅かに大きく振りかぶられるのを男は見逃さなかった。
一振りしたナイフを上体をわずかに逸らして避けながら、その勢いを利用して彼はターゲットに接近しようとする。
相手の背後に回り込んだ時に、模擬的ではあるが必殺の一撃を与えるべく、その首に処刑をかけようと腕が首に接近させようとしたのだ。
だが、獲物の珍妙な動きに思わず男は瞬間バランスを崩し、中断させられた——。
蛙のように上半身を低く沈め、地面に手をついたアレンは、そのまま全体重を駆けて上体を捩じって脚を蹴り上げた。
ガスマスクの右肩に命中し、手にしていた銀のナイフが宙を舞って床に転がる。
わずかながら姿勢を崩したままの相手に、アレンは身体を回転させた勢いを利用したまま鋭い回し蹴りを再び放つ。
繰り出されたその蹴りを、男は上体を逸らして避けてみせる。
その隙に体勢を立て直そうとアレンは、少し後退して間合いを取る。
背後の低い手すりに身を預け、吐き気を堪えながら立ち上がり、アレンは目の前を見据える。
——寒気が止まらない。こいつは本当に同じ人間なのか?
冷えた冬の夜風の冷たさから、アレンは全身から噴き出している汗を自覚し、呼吸を落ち着かせようとする。
顔を上げると、ガスマスクは闇夜の中で静かに立っていた。
「……今の技は?」
転がっていたナイフを一瞥し、男はマスクから声を漏らした。
「……カポエラ」
飾り気も無い正直な答えだった。
「…………」
「……南米出身の仲間に少し教わった。相手の攻撃を受けずにかわす技だから、力比べで不利な相手には有用だ。加えて、トリッキーな動きは相手の意表を突くのに思いのほか役に立つ」
「……そうか。なるほど、確かに」
感心した風に頷くような声。おざなりではなく本気で感心しているようだ。
「…………」
肩で息をしながらアレンは、目の前の男に困惑したような表情を浮かべる。
※ ※ ※
「彼はなぜここに?」
『まだわかんねぇ。連中がフル装備で出払う羽目になってんだから、只事じゃないのは確かだ。しかし、アルバートの旦那相手にまだやろうってんなら、大した奴だな』
「……どうする?」
『俺はともかく、お前は目立つ真似しないでくれ。今回ばかりは情報が何も無いんだ』
「了解、リーダー」
『……やめろ』
夜の帳の下りた空はようやく雨が上がって天候こそは回復していたものの、何度見上げても未だに薄汚れた灰色の層に覆われている。
空を満喫したくても、目にかかる光景は暗雲が殆どで余計に圧迫感を感じる。
「厭な夜だな」
黒い髪をした色白の青年が誰に言うでもなく呟いた。
やがて、首も疲れて、青年は見上げるのを止めた。