ドラマ 作品解説

Netflix版『デアデビル』シーズン3という傑作を語る――スーツを棄てた意味とは何だったのか?

シーズン3は『Daredevil』の在り方の完成を指す。

ここで描かれるのは「人は壊れた後に何を信じるか」である。
シーズン2からの『ザ・ディフェンダーズ』直後、マットは肉体的にも精神的にも崩壊している。
彼は神を信じられない。法も信じられない。人間も信じられない。つまり、シーズン1で成立していたはずの「理想」が完全に崩れている。https://note.com/embed/notes/n35ca3d0a90f4

そして、そこへ帰ってくるのがフィスクだ。
だが、シーズン3のフィスクは、もはや単なる犯罪者ではない。
彼は個を超えて裏社会の王『キングピン』になろうとしていた。
刑務所の中からFBIを操り、情報を支配し、世論を操作する。
つまり彼は「力による支配」を完成させた。

対してマットは逆に「孤独」へ落ちていく。

デックスは「生まれつきの怪物」か否か

ここで新たに現れるのが、ベンジャミン・ポインデクスター(ブルズアイ)である。彼はマットとフィスクの中間に位置する。

Netflix版のデックスのキャラ描写が優れているのは「殺人鬼」としてではなく「社会に適応しようとした壊れた人間」として描かれている点で、制作側も「現実に存在し得る人格崩壊」を意識していたと語っている。
彼は幼少期から感情形成に問題を抱え「他者を模倣しないと人格を維持できない」
だから彼には「北極星」が必要だった。
コーチや精神科医、FBIの規律、依存対象。
彼は常に「誰かが決めたルール」の中でしか生きられない。
つまりデックスは、自分自身を持っていない。
ここが重要であり、今シーズンのテーマ部分だと言ってもいい。

マットとの対比としての「孤独」と「自己制御」

マット・マードックもまた孤独な人間です。

幼少期の事故。暴力的な環境。
常人から切り離された感覚。
つまり、条件だけ見ればデックスに近い。
しかし、マットには父の教えや信仰心から生ずる慈悲、フォギーやカレンという大切な人、自分を律する思想があった。
だから、彼はギリギリ踏み越えない。

対してデックスには、それを持ってない。
だから、彼は誰かの意思に乗っかってしまう。

「怪物製造装置」としてのキングピン

シーズン3のフィスクは、単なる犯罪王ではありません。
彼は「人間を利用する怪物」として描かれている。

ショーランナーのエリック・オレソンも「フィスクを心理戦の支配者として描いた」と説明しているように、フィスクはデックスを見た瞬間に理解する。
「この男は、自分を定義してくれる存在を求めている」と。

だから彼はデックスを育てる。

  • 否定せずに承認する
  • 居場所を与え、暴力を肯定する

これは父親的支配であり、フィスクはデックスに初めて「お前を理解している」と言う人間になる。
だからデックスは堕ちる。
ここが恐ろしい。フィスクは暴力で支配しているのではない。
認めてやる素振りで他者を支配している。

そしてデックス最大の役割は「デアデビルという象徴」を汚染すること。

これはシーズン3の核心であり、
マットは「恐怖を利用して悪を止める」存在だった。
しかしデックスは、その“恐怖”を市民へ向ける。
つまり「ヒーローと怪物は、紙一重」というテーマを可視化している。

特に新聞社への襲撃や教会での戦闘は象徴的で、市民から見れば、本物のデアデビル(マット)と偽物のデアデビル(デックス)の区別はつかないし、視聴者ですらデアデビルのスーツを単体で見るとコイツはどっちだってなる。

つまり世間からすれば「暴力(自警団)は全部同じ」
これはマットの理想を根底から破壊する。
だからシーズン3のマットは、シリーズでも最も「殺意」に近づく。

Redditなどでも「デックスはマットの鏡像」という見方が非常に多いので、検索してみると考察の議論が楽しいです。

デックスは「救われなかった人間」

ここが重要でNetflix版『Daredevil』は“救済”をテーマにしている作品で

  • マットは人を救いたい
  • カレンは真実で救いたい
  • フォギーは法で救いたい

しかしデックスは、その全てから零れ落ちる。
彼は加害者でありながら、同時に被害者でもある。
彼は本当は「普通になりたかった」
だが、普通になるための人格基盤を持っていなかった。

「デックス、怒りをため込んではならない。発散する必要がある。
さもないと毒になり、君を内側から蝕む」
「怒りを1秒たりとも自分の中に抱え込むことができない時、
私はその怒りを――叫びに変えることで発散する」

シーズン3 第8話 ウィルソン・フィスク

その空洞を、フィスクが埋めてしまった。
フィスクは彼の壊れやすさを利用するし、マットは彼を救えない。
つまり「誰かを救いたい」という理想が、必ずしも人を救えないし更に突き落とすという現実そのものとして、シーズン3終盤で彼は完全に「ブルズアイ (Bullseye)」 へ変貌する。

『フィスク』という裏の主役

Netflix版『デアデビル』が傑出している最大の理由は、フィスク側も“主人公”として描いた点にある。
演技も含め、彼は単なる悪役ではない。
彼は愛を知っている。孤独を知っている。芸術を理解している。
そして、本気で「美しい世界」を夢見ている。

だが彼は、人間を信用していない。
だから支配へ向かう。

一方マットは、人間を信じたい。
だが、暴力なしではそれを守れない。

つまりこの物語は、

  • 人間を信じたいが故に暴力を行使する者
  • 人間を信じられない凶暴な理想主義者

の戦いなのである。

マットが何度殴られても立ち上がるのは、父親の生き様そのもので
彼はフィスクに負けても、骨が折れても、血だらけでも戻ってくる。
ジャックが最後まで負け犬にならなかったから、マットにとって戦うこととは、単なる正義ではなく、父親の人生を無駄にしないことでもある。
しかし問題は、ジャックの教えには危険性も含まれていた。

「痛みに耐えること」を美徳化しすぎており、だから、マットは自己破壊的になる。自分を休ませないで、苦しみを背負い込むし、幸せを拒絶する。
これは殉教者的で、つまりジャックは、マットに「誇り」を与えた一方で、苦しみ続ける生き方も植え付けてしまった。

「自分に正直になってくれ。
マスクを着けるのは、自己肯定のためだろう
人を痛めつけても意義があると感じ、神のためだとさえ思う。
『だが、それは違う。分かってるだろ』
「お前と父親はよく似てる。
八百長で稼ぎ――人を殴ることで悦に入る堕落したボクサーと
そんな父親よりマシだと思い込む息子。
お前は無価値なものから生まれ、無価値なままだ」

デアデビル シーズン3 9話 マットの中のジャック・マードック&ウィルソン・フィスク

シーズン3ではマットは「フィスクを倒すには、フィスクになるしかない」地点まで追い込まれている。

つまり、

  • 法では止められない
  • 慈悲では止められない
  • 正義では届かない

という絶望の中にあり、ここで彼を葛藤させているのが父ジャックの遺志。

根底には「父は、こんな自分を望まなかった」という心がある。
だから彼はギリギリ踏み越えない。
ジャックの記憶、そしてフォギーやカレンが彼を人間側へ繋ぎ止める。
一方、フィスクは、少年期に父を殺した一線を越えて、その最後のブレーキを失った人間なのだ。

怪物になれる人間が、怪物にならない戦い

マットはスーパーマンではない。
彼は本質的にかなり危うい人間で怒りも、暴力性も強い、執着もある。
だからエレクトラにも惹かれたし、パニッシャーの言葉にも揺れる。
つまり彼は「怪物になれる素質がある側」の人間だ。
その「ヒーローの皮」を剝いだ後に、シーズン3はマットの在り方に結論を出そうとした。

このシリーズのテーマとして重要なのは「人間は完璧じゃないし容易く壊れる」という現実を、マットへ突きつけたことであり、マットは多くの人を救ってきたが、エレクトラやデックスは救えなかった。
そしてフィスクは、その“救えなかった人間”を武器に変えた。

つまり、ブルズアイの誕生は、

  • フィスクの支配力
  • マットの限界点であり社会の無関心

それら全ての結果として生まれた存在だった。
だからこそ、デックスは利用された報いをフィスクに与えようとするし、父の遺志や良心が歯止めとなっているマットは、デックスの殺戮を止めようとする。

そして、皮肉なことにNetflix版『デアデビル』シーズン3と後の『Born Again』を繋げて見ると、デックスにとっては「自分と同じ怪物なのに、人間であろうとする男」として「同類という認識」をマットに見始めるきっかけとなった。


『デアデビル』という物語の本質

このドラマが今なお語られる理由は、「完全な正義」が存在しないからだ。マットは正しいが、彼の方法では救えない人がいるし、パニッシャーは危険だが彼の怒りには現実性がある。
マットもフィスクも怪物に近い。
だが、マットは救済を求めているが故に心を失わないでいる。

だから『Daredevil』は、ヒーロードラマでありながら「現実に溢れている町に生きる傷ついた人間たち」の群像劇になっている。
そして最後まで問われ続けている。
「誰かを守るために、どこまで壊れていいのか」
「そして傷を負いながらも、何を為すべきか」
それこそが、マット・マードックという男が背負い続ける十字架なのである。

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