2019年の映画作品『Joker』は社会現象になった。
当時、あまり他のDCユニバース作品を見たことがなさそうな老若男女たち。
そんな一般人層すら劇場へ足を運んで来ている人が数多かったため、公開当時は結構印象深かった作品である。
主人公であるアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)
社会から零れ落ちた一人のコメディアン志望の男が、怒りと絶望の果てに怪物へと変わる物語は、多くの観客の心に刺さった。
だが、その続編である『Joker: Folie à Deux (ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ)』は公開直後、驚くほど強い拒絶に遭った。
「退屈だ」
「ミュージカルが意味不明」
「ジョーカーが弱すぎる」
多くの観客が求めていたのは、前作の延長線上にある“暴走するジョーカー”だった。しかしこの映画は、その期待を意図的に裏切る。
それどころか本作は、観客がジョーカーに期待していたものを、作品のテーマとして解体する映画だった。
そしてその意味で、この映画は公開当時よりもむしろ「今の世界」にこそ相応しい作品なのかもしれないと私は感じている。
『ジョーカー』は「現実」には存在していない演出
この映画を理解する鍵は、主人公であるアーサーが「ジョーカーにならない」ことにある。
前作のラストでは、彼が注目を集めたテレビショーにおいて射殺事件を起こしたのを切っ掛けにゴッサムシティに暴動が起き、群衆に担ぎ上げられ、ついにジョーカーが誕生したかのように見えた。

だが続編が描くのは、その神話の裏側だ。
本来のアーサーは革命家でもカリスマでもない。
ただの精神が摩耗して壊れた男であり、自分が背負わされた「ジョーカー」という象徴に耐えられる器ではなかった。
つまり本作が描いているのは、個人の物語ではない。
「象徴」が人間を食い潰す物語である。

ミュージカルという「幻想の世界」
本作が強い批判を受けた理由の一つが、ミュージカル演出だ。
この演出は単なる奇抜さではない。
むしろ作品のテーマそのものを表している。
ミュージカルの中では
- ジョーカーはカリスマ
- 暴力は祝祭
- 世界は舞台
として描かれる。
だがそれは現実ではない。
それは「人々が見たいジョーカー像」だ。

つまり映画は「現実」のアーサーと「幻想」のジョーカーを切り分けている。
人々が求めてるカオスは、現実ではなく幻想の中で成立しているのであるということをミュージカルという舞台で表している。
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ハーレイ・クインとの力関係の逆転
この構造を最も象徴するのが彼を愛する女性である「ハーリーン・クインゼル」もとい「ハーレイ・クイン」というキャラクターの位置づけだ。
アメコミが起源であり、従来の映画等でも実写化されてきたHarley Quinn
とはジョーカーに支配される存在だった。だが本作では逆だ。
今作の彼女が愛しているのはアーサーではなく、ジョーカーという神話である。
だからアーサーが人間として生きようとするほど、彼女は失望する。
彼女が求めているのは恋人ではなく、身を捧げるに足る「象徴」だからだ。
ここで映画は残酷な事実を示す。
神話は「人間」を必要としないということを。

観客はハーレイだった
この映画のもっとも皮肉な構造はここにある。
ハーレイが求める「理想のジョーカー」は、現実の観客が期待していたものと同じだからだ。
観客はこう思って映画館に入った。
「あの後のジョーカーの暴走が見たい」

だが映画はその期待を裏切る。
現実のアーサーはただの弱い人間でしかない。
つまりこの映画は、観客にこう問いかけている。
あなたは何を見たかったのか?と。
- 人間の悲劇か
- それとも暴力というカオスの娯楽か
この問いは、映画の中のハーレイと観客を重ね合わせる。
ジョーカーは記号であり個人にあらず
その結果、本作で起きるのは奇妙な現象だ。
アーサーという人間は、神話に耐えられず消えていく。
しかしジョーカーという象徴は消えない。
むしろ逆に強くなる。
ここで映画は、ジョーカーをキャラクターの本質へと戻す。
つまりハーレイの同じく以前より描かれてきたジョーカーとは、
- 正体不明
- 起源不明
- 誰もがなり得る存在
として描かれてきた。
つまりジョーカーとは、一人の人物ではなく社会が生み出す象徴なのだ。
この映画は、真っ当にその誕生の瞬間を描いている。
【ネタバレ】『ジョーカー2』レビュー考察 ─ 偶像崇拝と幻滅の後日譚を解説| THE RIVER - Part 2 theriver.jp
なぜこの映画は嫌われたのか
理由は単純で、観客が求めていたものを、映画が拒絶したからである。
劇場に足を運んだ多くの人が見たかったのは、
- 犯罪のカタルシス
- カオスの解放
- 社会をぶっ壊すヴィランだ。
しかし作ったのは、その逆だ。
この映画は「ジョーカーを欲しがる社会」そのものを描いた作品だからだ。
今の世界にこそ相応しい映画
そしてこのテーマは、公開当時よりもむしろ現在の世界と重なっている。
社会が混乱するとき、人々はしばしば指導者を望み、「強い」とされた存在を求める。
しかし歴史は何度も示してきた。
そのような象徴が生まれたとき、待っているのは革命ではなく、破壊であることを。
『ジョーカー2』が描く構造は極めて単純だ。
社会の不満から『象徴』を求める群衆。
そして神話の誕生。
現実の破壊。
この構図は、映画の中だけの話ではない。
SNSで個人の狂気が集団へ広がる“トランプ現象”とも酷似か。『ジョーカー2』が描く「フォリアドゥ」とは - まぐまぐニュース! 公開前から大きな注目を集め、現在日本でも上映中の映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』。レディ・ガガの怪演も話題となっていま www.mag2.com
嫌われた映画の存在意義
『ジョーカー2』は決して気持ちのいい映画ではない。
それどころか、観客の欲望を鏡のように映し出す、非常に意地の悪い作品。
だがその不快さこそが、この映画の核心である。
メタ映画だから観客の期待そのものをテーマにしているため
公開時は誤解されやすい。ジャンル映画の解体として見ると、明らかにコミック映画の定型を拒否している。
そして社会状況との接続が密接であり、ポピュリズム・群衆心理など時代の問題を扱っている。
この映画が描いたのはジョーカーの誕生ではない。
ジョーカーと「笑えるジョーク」を欲しがるあまりに作ろうとする社会の誕生だ。
そして皮肉なことに、その意味では、この作品は今の世界やアメリカにとって、あまりにも正確な映画なのかもしれない。