
ヨハン・アンデルセンというキャラクターは不思議な立ち位置だ。
登場自体は3期からで出番だけで言えば翔や剣山、カイザー亮や万丈目や明日香といった初期メンバーより圧倒的に短い。
にもかかわらず、GXという作品を語る時、彼の存在感は異様なほど大きい。
それは単に「人気のライバルキャラ」として出されたからではない。
ヨハンは、GX後半のテーマそのものを成立させるキャラクターだからだ。
彼は、十代の親友であり対比でもある。
そしてGXという作品が最後まで捨てなかった「希望」そのものを表しているということを今回は考えていきたい。
「かつての十代」を外部化して「大人」にした存在
初めてヨハンを見ていると非常に既視感がある存在として描かれており、精霊と自然に会話したり、デュエルを楽しむ姿。

周囲や他者と壁を作らない、明るく真っ直ぐという、これらはそっくりそのまま、作中でも言われているように初期の遊城十代の特徴でもある。
つまりヨハンは「かつての十代自身」を、後から物語に持ち込んだキャラクターでもある。

ただし決定的に違うのは「精神的な落ち着き」だ。
初期の十代というのは、
- 楽しいなら突っ走るし、自分が傷つくことを考えない
- 他人の期待を無自覚に背負い、「何とかなる」で進む
これは魅力でもあるけれど、同時に自己を消耗して傷つける。
一方、ヨハンは同じように明るいのに、
- 周囲をよく見ており、相手の痛みに敏感で抱え込んでる物を察知できる
- 無理に踏み込まないし、必要な時だけ率先して支える
という、十代に比べると大人びて成熟した対人距離感を持っている。
あとこうして見ると、後の4期の十代はヨハンの在り方を取り入れてるのが分かる。
十代の優しさと、ヨハンの優しさは違った
ヨハンが語る「人間と精霊の架け橋になること」という夢もあるのか、精霊と会話できる彼は「他者の声を聞く」ことが自然にできる人物。
それは人間相手にも同じで、だからヨハンは相手の意見を押し切ったり、思い通りにしようと自分の理想を押し付けない。
彼は盲目的に前向きだったり、無条件に他人の話に肯定する楽観主義者でもない。
むしろ、傷や迷いを見聞きした上で、それでも受け入れる姿勢だ。
「彼は迷っている。十代に何かアドバイスしてほしかったんだ」
「翔なら、大丈夫だよ」
「十代って、案外冷たいんだ」
108話 ヨハン&十代
つまりヨハンは「子供っぽさを手放さないで、大人になった理想の十代」にも見える。108話では他にも「子供で悪いかよ」と拗ねたように口にする十代の傍で困ったように笑ってオブライエンに悪かったと謝ったり、上記の「冷たくないか」といい、見直すと結構お兄さんしてるヨハンが登場早々に見れる。
このようにヨハンは十代を英雄として扱わないし、むしろ喜怒哀楽を持っている「一人の人間」として見る。
これは十代にとって、実際かなり救いだった。
十代がヨハンに拘った理由
ヨハンは「初期の十代の理想形が、成熟した姿で現れた存在」であり、対等な存在として激励を送ってくれる。
まだ壊れていない十代のように映るし、彼は単なる似た者同士ではなく「もし十代がそのまま成長していたら」の一つの可能性にも見える。
また、デュエル観や精霊の存在など本当の意味で共有できる相手が少ない十代に、ヨハンは「説明しなくても通じる相手」という極めて稀有な存在だった。
だからこそ十代にとって、ヨハンが唯一無二の親友となる。
それは単なる友情ではなく、十代はヨハンを見るたびに精霊との仲がいい姿に「なれるかもしれない自分」を見せられていた部分があるかもしれないし、最初にレッド寮に来たときに語ったように「デュエルで絆を紡ぎながら多くの友を作る」という彼にとっての「憧れの学園生活」を共に実現できる相手だからだ。

ヨハンは根本的に「繋がること」を前提にしているキャラクター
そして十代の側にいることでヨハンも彼のことを理解する。
本来、十代もまた人と笑って一緒にデュエルして繋がりたい人間だってことをヨハンは知っている。
だからこそ、上記の翔への態度然り、他者の機微に鈍感な十代を見ると「仲間を気にしたり、信じてないのか」に近い感じ方になるし、彼にとっては優しさ以前に「他者を遠ざける行為」として映る。「ああ!」やら「なんだよ…何見てんだよ」のミームが目立つが細かく劇中の振る舞いを見ていくと、十代の危うさをかなり早い時期から見抜いてるし、その観察眼は伊達ではない。
さらに、ヨハンは強い存在ではあるが、強さ自体に執着していない。
一方、十代はデュエル以外での人との付き合い方や、他人を見るという事が苦手で、彼なりに仲間を守ろうと「自分が強くなる」方向へ進んでいたし、むしろ「みんなを巻き込みたくない」感覚が強まるほど、それは顕著になってしまう。
そうして3期の途中から十代は、仲間を守ったり役目を果たすうちに、目指してたはずの「楽しくデュエル」ができなくなりつつあった。学園を襲った度重なる異常事態のせいもあるが、自分自身を信じられないような状態に半ば陥っていたし、ヨハンは異世界に置いてかれるまで、十代の支えになってくれた。
「馬鹿野郎!」
「……?」
「何をビビってるんだ、十代!」
「……ヨハン」
「お前に背負うものがないだと? ふざけるな! お前にはいつだって、皆の期待が集まっている!
期待しちまった人間はなぁ…その人間の希望を、全部そいつに託すんだ! お前はいつだってそいつを背負ってるじゃないか!」
「何だコイツ、コイツが来て十代の闘志が蘇ってきた……
こうも簡単にボクの十代を……許さない、貴様」
129話 ユベル(マルタン)
宝玉獣という『存在の喪失の名残』と『奇跡』を表すテーマ

ヨハンは精霊を支配しない。
むしろ、一緒にいるだけで関係が成立している。

ここにGX後半の重要なテーマがあって「失われても場に残る存在」という「宝玉獣」は、GX後半のテーマを最も象徴しているカード群でもある。
宝玉獣は破壊されても「墓地」へ行かない。
代わりに宝玉となって「場」に残る。
これはカードゲーム的にはリソースの管理だが、物語的に見ると非常に意味深だ。
GX後半は「喪失」を描く作品だった。
仲間の消失、後悔と孤独、覇王化からのユベル戦。更には4期のダークネスとの戦い。
しかし宝玉獣は、その喪失に対して「消えても、繋がりは残る」という答えを先駆けて提示している。
破壊されてもその存在の痕跡としてフィールドに残る彼らは「失われたものの残響」そのものなのだ。そして宝玉獣たちの先に現れるのが『究極宝玉神 レインボー・ドラゴン』である。
このカードは通常召喚できない。
自分のフィールド・墓地に「宝玉獣」カードが7種類存在する場合のみ特殊召喚できる。
このカードが特殊召喚したターン、このカードの(1)(2)の効果は発動できない。
(1):自分フィールドの表側表示の「宝玉獣」モンスターを全て墓地へ送って発動できる。
このカードの攻撃力は墓地へ送ったモンスターの数×1000アップする。
この効果は相手ターンでも発動できる。
(2):自分の墓地から「宝玉獣」モンスターを全て除外して発動できる。
フィールドのカードを全て持ち主のデッキに戻す。
究極宝玉神 レインボー・ドラゴン/Rainbow Dragon
重要なのは、このカードが突然デッキから現れるような切り札ではないことだ。フィールド(場)に呼び出すには、七体の宝玉獣が必要になる。
つまり、絆の積み重ね、共に過ごした時間、消えなかった存在の痕跡。
その全てが揃って初めて辿り着けるカードだ。
そして、強力な効果を使うにも、積み重なった宝玉やレインボー・ドラゴン自身の犠牲が求められる。
GXは「奇跡」を描く作品だと捉えられる。
しかし、その奇跡は「何も失わずに得られるご都合主義」ではない。
むしろ「失ったものを抱え続けた先で、引き継がれて起こせる奇跡」として描かれている。
『宝玉獣』とその先に置かれた『究極宝玉神 レインボー・ドラゴン』の系譜は、その象徴だ。
『無駄だ十代、俺はそいつなど忘れた。
道端のゴミなど、覚えているわけないだろう』
「藤原……」
「いいえ、マスターは僕のことを忘れてなどいない。
僕がマスターを忘れていない限り」
176話 藤原&十代&オネスト
「そんなことが……存在が消えてなお、どうしてこんなことが……」
「わかっているはずだ、お前にも。オネストを忘れていないんだろ」
「俺は、全てを忘れたんだ……」
「違う、大切な人を忘れられるわけはない。お前の両親だって、きっと……」
十代&藤原
アモン・ガラムとエクゾディオスという「絆」と逆方向の到達点
ここで話を変えるが興味深いのが、同じ留学生のアモン・ガラムの存在。

アモンはヨハンと対極にいる。
彼は、合理性や自己制御の鬼として徹底したキャラクターだ。
感情を切り捨て、他者を利用し、目的達成を優先する。
名デュエルと名高いヘルヨハンもといユベル戦では「アモンには心の闇がない」とすら語られる。
だが、それは「清廉潔白」という意味ではない。

一方で、精霊ユベルは「十代を守りたい」という願いが極端化した存在で、そして前世の務めとして、覇王への愛と引き換えに怪物になることを引き受けた。
つまりユベルもまた「愛を貫くために、人間性を捧げた存在」とも言える。
そもそもGXにおける「闇」とは、後悔や執着心、孤独からの愛を欲する心、自己否定や罪悪感といった、人間的な「揺れ」そのものも含めてのものでもある。
アモンは、それを理想の世界に向けた信念と合理性によって、それを押し潰している。
むしろ彼は感情の揺れを切除してしまった人物として、だから“闇”が見えない。しかし、そんなアモンにもエコーという例外がいた。

エコーは、アモンが唯一合理だけでは処理できなかった存在だった。
彼はあらゆるものを切り捨てられる人間だったが、エコーには、あらゆる情が混ざっているのは彼も自覚はしていた。
つまりエコーは、アモンが「まだ人間」である証明だった。彼女自身の痛みや心の闇がアモンを上回った選択とはなってしまったとはいえ、彼女はアモンのその犠牲を「愛の証」として受け入れる。
が、GXでは「精霊との繋がり」は美しいものとして描かれる一方で、次第に彼らの力のみを欲する者が現れるようになる描写がある。
彼らと繋がるなら、その痛みや責任も引き受けなければならないユベリズムという側面も強調されるようになるのだ。
だから、よくユベルが運ゲーで粘り勝ったと言われるのもアモンの側には「勝利への計算」のみで「奇跡」は起こせずに最終的に敗れてしまった。
だから、あのタイミングのラスボス級同士の決闘も、
「覇王十代」はユベルを討ち倒すのではなく、受け容れる選択によって手を取り合うことで、アモンとは異なる未来を勝ち取れたということなのだろう。

ヨハンはなぜダークネスの力に呑まれなかったのか
4期において、ダークネスは人々を「闇」へ引き込む。
傷つきたくない、未来を見たくないという逃避へ誘う存在だ。
十代ですら、かつて一度は闇に傾いて覇王として孤独へ堕ちたし、未だに僅かながらもダークネスの力の影響を受けてしまう。
しかし、ヨハンは違った。
4期で多くのキャラが闇へ呑まれる中でも、ヨハンは比較的揺らがない。
彼は最後まで「未来や他者との繋がり」を疑わなかったし、それは単なる精神力ではない。
ヨハンは最初から「繋がること」を前提に生きているからだ。
だから彼はダークネスと根本的に噛み合わないし、『レインボー・ドラゴン』はダークネスの闇を祓う。結果的に力技で吸収された特別待遇だった模様。

前回の記事で語ったように仲間を失い、孤独を知り、繋がりの痛みを知った作品として「覇王十代」もまた完成した一つの在り方だ。
そして、ヨハンと宝玉獣はその逆に立っている。
失われても、繋がりは残る。
傷ついても、他者を求め続ける。
しかもそれを幼さ故にではなく「成熟した自分の要素」として持っている。
重要なのは、作品がヨハンを「十代の上位互換」にしていない点。
ヨハンにはヨハンの強さがある。
十代は、彼が経験したからこそ辿り着ける境地(遊城十代/ユベル)がある。
だから、最終的にGXは光だけでは完成しない物語になる。
ヨハンは理想の可能性であり、十代は傷を抱えた上に立つ現実で、その両方が並び立つ。
そして奇跡とは「何も失わないこと」ではなく、
「失った後でもなお、繋がろうとすること」の先で起きる。
「願いは叶えられる。だが何も失わずには済まない」として
十代やアモンに限らず、斎王やコブラですら皆等しく、力を得る代わりに多くを失っていった。
ここまで来るとGXにおける「願いには責任が伴う」はひたすら重いテーマだったように思えるが、作品は残酷なルールとして描いてはいない。
むしろ「青春劇」らしく「失う痛みがあっても、それでもその上で選んだ『選択』や『喪失』には価値はある」という地点へ向かっていく。
十代が最終的に学ぶのは「奇跡を自ら起こせる完璧な英雄になること」ではない。「俺の引きは奇跡を生む」と語ってきた十代は大人になって「奇跡を起こせなかった自分」を知っている。
だから同時に「奇跡」は「一人で起こすものではない」という方向へ変化できたのだ。
彼の結論は、ダークネス戦で語ったように、たとえ傷ついたり失敗するとしても、それでも受け止めて「繋がり」を信じ「奇跡を示そうと未来へ進む」ことだ。

それを教えてくれるメッセンジャーを担ったヨハン・アンデルセンは、
GXという作品が最後まで諦めなかったそれでも人は誰かと繋がれるという「希望」そのものだったのだ。
