作品解説 映画

Netflix映画『バスターのバラード』に見る『ノーカントリー』との共通項――“神話の終わり”と“受容”

物語は唐突に終わるもの

コーエン兄弟の『バスターのバラード』は、西部劇の装いをまとった6篇の短編集(オムニバス)だ。
一見すれば、風刺や皮肉、ブラックジョークの類に過ぎないが、全体を通して貫かれているのは「西部劇神話の崩壊」と「死の受容」という二重の構造である。

この映画の各エピソードは、古典的アメリカ神話の“原型”を召喚し、それを静かに解体する。
第一話のバスターの陽気な姿や彼の華やかな銃捌きも、主人公たちの孤独や絶望も──すべては「物語の終わり」を描いている。
それはすなわち、「人間が自ら作った神話の死」を見届ける寓話であり、「神話の死」を通してしか語れない“生”の在り方だ。

第1話『The Ballad of Buster Scruggs』

冒頭のバスターは、「ミュージカル調の歌うカウボーイ」という西部劇の古典像
彼は軽快に歌いながら無法者を撃ち殺し、笑顔でカメラ目線を向ける。
まるで我々が思い描いたカウボーイという「アメリカ的ヒロイズム」の在り方だ。

しかし彼の死は唐突で、無情で、コミカルですらある。

撃たれた瞬間、彼は天に昇り、ギターを弾きながら「死もまた運命」と歌う。
つまり、彼は「英雄として死ぬ」どころか、物語としての“ヒーロー像”そのものがあっけなく消費される
バスターは誰よりも“強く、上手く、絵になる”。
しかし、その強さは戯曲の中にある脚本ありき、つまり演出的です。
彼は「映画の中の西部ヒーロー」という虚構の体現者。

そんな彼が“若者”に撃たれることは盛者必衰でもあるが、虚構が現実に負ける瞬間です。
これは第二話にも通じるテーマで、銀行強盗を試みたカウボーイ然り「男が自らの信念を貫いて死ぬ」のではなく「偶然の連鎖で死を受け入れるしかない結末」を迎えるのだ。

これはまさに西部ヒロイズムの無力化
暴力と死を物語として消費するアメリカ文化そのものを解体し、そしてコーエン兄弟は、観客の笑いの中に「神話の腐敗」を滑り込ませている。

「神話の弔いの歌」=バラードを歌っているからこそ『バスターのバラード』なのだ。

アメリカンドリームという神話すら包む自然

老いた金掘り(プロスペクター)のエピソードも同様です。彼は熟練の勘と技術で地層を見極め、少しずつ金脈を探して掘り進めていく。
数日かけて、ついに金脈を見つけ出す。
そして歓喜の瞬間——背後から、彼を尾行していた若い強盗が現れ、撃ち倒します。

しかし、老掘り師はまだ死んでいなかった。
彼は息を吹き返し、逆にその若者を撃ち殺し、血まみれになりながらも金を抱えて去っていく。
最後に、谷の自然が映し出され、すべては何事もなかったように元の静寂に戻る——。

物語は、一見すると「老人が知恵と根気で自然から富を得る」成功譚のようにも見えます。
しかし、その終わり方は冷徹で「人間がどれほど血を流そうと、自然は何も変わらない」というコーエン的な無情さを示している。
つまり、この話は「自然は人間の営みを超越している」という自然神話への回帰と、人間神話の無力化を描いており、現れる老人は、まるで自然を“採掘”し、利用する人間の象徴として彼の存在はちっぽけであるというものだ。

また「アメリカンドリーム(American Dream)」の象徴である金脈、その成果は何の努力もしていない若者にあっさり奪われかける。
ここでは「勤勉と報酬の結びつき」といういまだに語られているアメリカ神話があっけなく崩れている。偶然や暴力が支配する世界で、自然はすべてを包み込んでいるという関係性を描いているのだ。

全編で描いてきた「不条理な世界」は『ノーカントリー』と同様で、コーエン兄弟の真骨頂である。
金や名声、文明や婚姻、信頼といった人間の制度的神話は、過酷な現実の前に意味を失う。

そうして神話の死を弔いながら、バスターたちの語りは今日も朝日を昇る。

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