ゲーム 作品解説

MGS ザ・ボスの遺志とビッグボスの曲解について。核抑止を取り上げた「ピースウォーカー」が何故分岐点になったのか?

小島監督のMGSシリーズは「核抑止は理屈としては成立しても、現実の人間関係/政治の不完全さによって脆弱化する」ということをピースウォーカー計画の顛末によって解答を示した。これは初代MGSのナスターシャ・ロマネンコが繰り返して語ってきた言葉でもある。

これを踏まえて、ザ・ボスの遺志とビッグボスや「子供たち」の選択の意味について改めて取り上げたい。
これは色んなゴタゴタで言語化がされにくいトピックだったが、初代からのナスターシャ・ロマネンコの分析と照らし合わせることで、理解が深められるという内容を整理したいと思う。

劇中で示される「核抑止」への批判――コールドマン/ストレンジラヴの役割

『Peace Walker』では、機械的・自動的な反撃を保証するAI(ピースウォーカー)を使えば「人間の尻尾を切った」抑止が成立すると考える人物として描かれる。
それを主導したコールドマンは、抑止の“制度的解決”を代表するキャラクター。

彼は機械の合理性と計算で人間の不確実性を排しようとする。
「人間は自分たちの種を滅ぼすほど冷徹に決断しない」と見なし、AIに代替させれば確実な報復が得られると信じる。
だが、その実験は偽情報・裏切り・想定外の介入によって狂い、抑止の安全神話が崩れる過程を示す。

その思想は、人間の感情や誤認、そして「もしもの選択」を排除するがゆえに脆い。
彼の構築したシステムは、皮肉にも「人間を排した結果、人間的な誤りで崩壊する」
それは、合理主義故に自らの足元に掘った墓穴だった。

それを支えたストレンジラヴは、かつて愛したザ・ボスの人格を再現したAI設計者であり、核システムに「人間性/倫理」を組み込むことを試みた人物。

彼女は科学と倫理の間で揺れながら、コールドマンの冷徹さを人間の記憶で補おうとする。核を単なる論理(相互確証破壊)として扱うことの薄さと、人間性をどう組み込むかという問いを浮かび上がらせる。

理論上の抑止(人間の数式)は、現実の政治・心理・裏切りによって破られること。ならば「抑止を保証するための技術的・制度的解決」(AI自動化や外部からの強制)は、人間の介入を排することで一見“強固”に見える。
が、逆に新たな脆弱性(ハイジャック、偽装、誤作動)を生む。
Peace Walker の仕様と結末がこれを示し、それは劇中ラストでコールドマンの仕掛けが暴走しかける場面は、その証明になっている。

それを防いだザ・ボスの選択は「核」という“制度的抑止”に依存するのではなく、個人の覚悟と相互理解(=兵士が誰のために戦うかを問い直すこと)によって暴力の連鎖を断つ、という道を示そうとした。

ザ・ボスという名の「個の意思」を信じた女性

彼女の行為は国家組織や制度化以前の次元で問い、暴力の連鎖を断つための個人的な『選択』を提示する。
だが、彼女のやり方(自己犠牲型)は物語的には「成功したが継承されにくい」型であり、後に彼女を慕う者たちに解釈のずれを生む。

その手法(自己犠牲)は歴史的・物語的には成功したが、後の世代、特に愛弟子であるビッグボスには別の解釈を生み出した。

ザ・ボス(The Boss)は「国家の命令/冷戦の枠組み」を超えて『兵士の在り方=個人の意志と犠牲』を示し、最終的に自らが悪になることで大戦回避(=人為的な仕掛けに抗う)を選んだ。
兵士とは個であり、国家の道具ではなく「意思の担い手」であるという美学を体現した人物。

彼女は自らを“国の裏切り者”に仕立て上げ、任務と国益の欺瞞を暴いて見せることで、個人の犠牲によって大きな暴力(全面戦争や核の使用)を回避しようとした。
彼女の選択は「真の平和は命令系統/制度の正しさに委ねるだけでは成り立たない」という示唆でもある。
彼女の存在は「兵士の誇りと責務(個人の道徳)」を強調する倫理的メッセージ、もうひとつは「国や制度の論理(核抑止を含む)が常に正しいとは限らない」ことへの鋭い批判があるのだ。

そうしてザ・ボスが残した「個が国家を超える」という理想は、ビッグボスの下でやがて「国家に代わる力を持つ共同体」――すなわち、武力による“抑止の理想郷”として転倒していく。

犠牲なくして勝利は得られない世界を根差した「ビッグボス(VIC BOSS)」の選択

ビッグボスもとい、ネイキッド・スネークは当初ザ・ボスの理想(兵士の誇り)を継承しようと、その理念を正しく理解しようとする。
が、『ピースウォーカー』EDラストにおいてザ・ボスの自己犠牲を選んだ生き様を終始無言で見守ったビッグボス。

そして、「戦う兵士」として育てられた自分への「裏切り」として受け止めたことが、後の思想の歪みを生む。

https://youtube.com/watch?v=z8ZvDiEt5nE%3Frel%3D0

ザ・ボスの「倫理」は「抑止による自己増殖的」な論理、すなわち「抑止のための抑止力」を招く。
結果として、彼はその矛盾の源泉にもなる。
つまり、上からの命令系統から逸脱した彼女の理論上にある抑止力(兵士)を拡張することで「守るべき共同体」へと転化させる。

兵士が国家に使い捨てられるのを避けるため、やがてその「兵士自身を守るための独立した軍事的主体=外の国に依存しない『兵士達の天国(アーミーズ・ヘヴン)』」を作ることを選び、核や兵器を「抑止の手段」「独立を守る盾」として取り込んでいく。

そうして「兵士達の安全を保証する手段」として受け入れつつ、抑止が生む緊張と悪循環(世界を永続的に不安定化させる構造)を断ち切れない「茨の道」を築いてしまった。
皮肉にも、戦うことで居場所を見出そうという在り方だ。

ビッグボス曰く俺たちは地獄に堕ちる。

そして、長年信頼してきたはずの相棒でありながら、兵士たちの居場所を作るという信念を理解せず、ただ世界に認められるビジネスにできると自己正当化しながら進言してきたカズヒラ・ミラーに対する失望と嫌悪感は、おそらく計り知れなかったのだと思われる。

『メタルギア』シリーズの根幹には、常に“抑止”との戦いにあった。

それは「兵器の存在が戦争を抑える」という矛盾した信仰、ビッグボスはその教義の創始者として描かれる。
ビッグボスは、ザ・ボスの理念を継ぐために「兵士が国家に従属しない世界」を作ろうとした。
それがアウターヘブンであり、抑止の一形態でもあった。
「力なき者が力に支配されるなら、力を持つしかない」という逆説的信念。彼の理想は「国なき兵士たちの楽園」であり、政治や国家の支配を離れた“武力の自治”だった。

しかしそれは、結局のところ「力による平和」の延長線上に過ぎず、核兵器を持たぬ国家が、核を持つ国家を恐れるように、武装による抑止に依存する理想となった。

彼の選択は「ザ・ボスの理想を守ろうとして、別の形の暴力装置(兵士の国家=傭兵国家)を作ってしまう」という悲劇的帰結に至り、結局は抑止を利用しつつも、その暴力の連鎖を断てない道を選んだ。

力による自由は必ず「抑止の均衡」に行き着く。
ビッグ・ボスの作った“兵士の楽園”は、同時に「核による自立」を必要とし、結果的にザ・ボスが拒んだはずの世界へと回帰していく。

ビッグボスは理想の継承者ではなく、曲解した理想の“再生産者”になってしまった。
理論としての抑止(相互確証破壊など)は力を持つが、実際の政治・心理・人間の判断ミス・裏切りによって簡単に破綻する
小島監督は核抑止を単なる“数式”としてではなく倫理・主体性・情報操作が絡む「複雑な生態」として扱う。

MGSのキャラクター群は、それぞれ核抑止の長所と致命的欠陥を体現したことで、「抑止=平和」の単純化を否定し、抑止を成立させる前提(技術や合理性、誤認の排除、情報の完全性)が崩れる現実世界では、抑止は非常に不安定で危険、という教訓を伝えている。

ある意味では、アウターヘヴンを築いたビックボスそのものが人々を束ねながらも「抑止力の象徴」でもある。

抑止論を支えるのは単なる武力の保有ではなく情報の整合性、コミュニケーションの信頼性、そして相手を“合理的に”動かそうとする制度的な相互理解。
すると、彼をイコンに祭り上げようとしたゼロの支配の論理(愛国者たち)に行き着く。

ならば、そのコミュニケーションや相互理解のツールである「言語を破壊」すれば、どうなるだろうか?
その意思を担っているのがスカルフェイスという男だ。

スカルフェイスの目指した「終末時計」

国家間の核抑止は、情報の可視性・合理的行動者の仮定・相互理解に依存している。
英語や共通の通信手段が崩れれば、コミュニケーションの誤認や錯誤が増え、抑止は急速に脆弱と化す。
スカルフェイスは情報の断絶・混乱を生み出すことで、核抑止が“有効な平衡”ではなく脆弱な幻想であるということを表すキャラクターでもあるのだ。
東西を問わない非対称攻撃、テロ、他者性の抹消を狙うやり方は、抑止論が前提とする「透明性」「予測可能性」「合理的主体」を破壊する。

抑止は“相手が核を使わない合理的理由”に依存しているため、合理性の枠外で行動する存在(あるいは合理性を逸脱させる情報撹乱)は、抑止を無意味化します。
スカルフェイスの言語攻撃は、この“予測の土台”そのものを攻撃する効用を持っている。

「情報の整合性」と「コミュニケーションの信頼」を破壊しようとする存在。
英語を象徴的な標的に選び、世界の共有基盤を崩すことで抑止を無効化しようとする。
純粋に「制度的批判」を行う理論家ならば、破壊後の秩序設計や被害最小化を考えるはず。
だが、スカルフェイスの動機には個人的復讐心と根深い憎悪(被害経験とそれに伴う人格的壊れ)が大きく混入しており、彼の手段は破壊的・大量殺戮的であり、彼の行為は大規模な混乱を引き起こすが、むしろそれが目的でもある。

彼は「英語」という支配の象徴を消すことで、国家間の抑止構造を無効化しようとする。
抑止を維持する“情報と信頼の構造”までも徹底的に破壊する。
そうして、秩序を壊すために秩序を否定しすぎた結果、世界は「誰も意思を伝えられない世界」へと向かう。
彼の求める破壊は、同時に人間社会そのものの崩壊を招くという皮肉な結末となっている。

ザ・ボスの「世界はありのままでいい」という言葉を彼は引き継いでるように見せて、彼が求めるのは「破壊だけ」で得られる解答は何もない。

世界を無政府状態にするわけではなく、むしろ新たな暴力連鎖や対抗行為を生む意味でも、彼は世界を報復の海に沈めようとしていたのだから。

ビッグボスやゼロ、スカルフェイスがそれぞれ“破壊”と“継承”の形で見失った理想――「暴力に頼らず、信頼と意志で世界を作り直す」可能性への再起動は見失った。
理念は「国家に従属しない兵士の楽園」でしたが、それがやがて「自分たちも核を保有するしかない」という逆説に陥ります。

「抑止のための核」は、結局、他者への恐怖に依存する平和。
それは“自由”ではなく“不安の均衡”に過ぎない。

小島監督が繰り返し描くのはこの矛盾――「暴力による平和」「支配による秩序」は、結局その逆を呼び込むという現実。

ビッグ・ボスの思想は、冷戦期の西側・東側の論理そのものだ。
「相互確証破壊(MAD)」によってのみ平和が成り立つという逆説の中で、彼は「兵士にとっての自由」を夢見た。
しかし、自由のための力がまた他者を縛る。
その矛盾を受け継いだのが、彼の幻影——ヴェノム・スネークである。

ヴェノムという名の「ビッグボス(The Phantom)」

“本物のビッグボス”が創り上げた物語の中で、
「敵の標的を引き受ける存在」――誰かの信念を守るために利用された他者

しかしプレイヤーが彼として歩む過程で、
ヴェノムは「幻ではない自分自身」を見出していきます。
そして、その“幻”が歩む道こそ、シリーズの思想を実践する最後の実験だった。

彼は「抑止の象徴」として、核兵器を所有する存在であり続けなければならない。
すなわち「核や戦力を持つことで争いの元を断ちながら闘う」というビッグボスの理屈を体現する存在である。
プレイヤーが核を開発するのも、廃棄するのも自由だが、どちらを選んでもその選択は「誰かの抑止」によって揺らぐ。
オンライン世界において、プレイヤーが作り出した“核”の数がまた別の抑止を形成する構造そのものが、この作品の「現実への反射」だ。

物語ラストで、ヴェノム・スネークは自らが「幻」であることを知る。
そして、彼は“抑止”という虚構が、自身たちの存在理由の同一性に行き着いたのかもしれない。
つまり彼自身が、ビッグボスの名を与えられた抑止のメタファーそのものでありながらも、最終的に「核廃絶」という形で現れる。

自分は作られた存在だが、それでも“意思”を持つ一人であること。
ならば、この手で“幻”を超え、世界の鎖を断ち切る。
つまり、恐怖と抑止の連鎖を自ら断ち切るという成熟の象徴である。

これはビッグボスやスカルフェイスが見失った「自由意志」の再定義でもあり、選択によって「恐怖の均衡から手を放すことが可能」である最後の答えとしての「今日よりいい明日を作る」
この言葉は、シリーズ全体に通底する「絶望の中の希望」
ザ・ボスは「世界の破滅を正すために死を選んだ」
ゼロやビッグボスは「世界(兵士)を守るために力を手にした」
スカルフェイスは「抑止そのものを壊そうとした」

さらに言えば、カズヒラ・ミラーは「理想への信仰を利用」してボスを支えながら裏切った男であり、ヒューイ・エメリッヒは「理屈による正当化と自己欺瞞」によって裏切った男。
この二人の対立は、二つの側面を象徴している。

ミラーは、兵士の誇りや正義を与え、武力を持ち続けようとする。
一方、ヒューイは、科学と論理の名のもとに兵器を正当化する。

どちらも“争いを止めるための暴力”という矛盾を抱え、どちらもそれに自ら敗北する末路を迎える。
彼らは共に、抑止の構造から抜け出せない被害者であり加害者だ。

その中で唯一「抑止を否定する選択」を託されるのがヴェノム・スネークである。
誰も世界の構造を変えることには成功しなかった。
なぜなら、全員が力・犠牲・復讐という「手段」で戦っていた中で、ヴェノム(プレイヤー)だけが「それ以外の位置を探る」という行為を自ら選べた。

それは“勝者や支配者を作らないための、最初の小さな選択”=核抑止(恐怖の平和)から脱却する勇気のこと。
「銃を手に取らない自由」「恐怖に頼らない平和」を象徴する行為でもあるからだ。
それは「世界を支配すること」でも「敵を倒すこと」でもなく、
ただ“恐怖に依存しない明日”を自ら選び取るという決意だ。

https://youtube.com/watch?v=Hdc4g12ogKA%3Frel%3D0

ヴェノムは単に過去を否定したのではない。
彼はザ・ボスの「個人の意志」を、そしてビッグボスの理想である「兵士が自らの意志で生きられる世界」を暴力ではなく“選択”によって継承した。

ザ・ボスの死は、「個人が国家を超える」行為だった。
ビッグボスの反乱は、「兵士が国家を超える」行為だった。
ヴェノムの核廃絶は、「人類が恐怖を超える」行為だった。
この三者は、ひとつの思想の進化形といえ、
「個人 → 共同体 → 全体」へと拡張していく思想的連鎖。

『メタルギア』シリーズは、核抑止を単なる軍事理論としてではなく、人間の欲望、倫理、言語と情報の支配、そして幻想(物語)によって支えられた制度として描く。
各キャラクターは抑止のある側面を体現し、それぞれが抱える矛盾・限界を通じて「抑止はなぜ脆いのか」「抑止の外に可能性はあるのか」を語る。

核廃絶エンドは、プレイヤー全体の協力によって初めて成立する「メタ的な希望」
つまり、ゲーム世界でも現実でも、人類が協力して初めて達成できる平和を象徴している。

この構造自体がメッセージで、
平和は「物語の登場人物」が作るものではなく、
「プレイヤー=人間自身」が意志で作るもの。
真の安全は抑止の保有ではなく、選択と相互の信頼(情報・言語・協力)によって初めて成立しうることを示唆した。

小島監督は最終的に、抑止や国家を超えた「意志の連帯」を提示しました。
それが、ヴェノム・スネークの最後の言葉の意味――「今日よりいい明日を作る」=「幻想(幻肢)を超え、現実を変える責任を引き受ける」こと。

核抑止とは、恐怖と誤認の均衡による脆い平和。
ヴェノムはその“虚構”を理解し、自ら武装解除することも選べる存在。

英語という名の構造の破壊で示した“支配”と報復の炎を、ヴェノムは「拒絶」ではなく「手放し」で乗り越えた。
そして、本物のビッグ・ボスが現実の抑止を受け入れたのに対し、新たな選択を求められた。

戦略的意義抑止論を否定しつつも、秩序の再構築を“協働”によって成し遂げようとする、人類的成熟の象徴。

「抑止を維持するための核」を持つのではなく。抑止そのものを信じないという、倫理的な一歩。

それが、幻として生まれた男が最後に見出した“真実の自由”であった。
ザ・ボスの犠牲、ビッグボスの反逆を経て、選択で暴力を超える段階に到達したヴェノムの役割は「抑止という幻想を、最後まで演じきること」だった。それは欺瞞でありながら、真実を守るための嘘でもある。
彼はビッグ・ボスという“理念の残骸”を背負い、蛇がまだ手放せない「力の神話」を代わりに背負って消えたのだ。

“核廃絶”の幻は、決して永続しない。
だがそれは、理想が実現不可能だからこそ尊いという、
コジマ作品に一貫する「人間の悲劇的な希望」そのものでもある。

  • 相手への恐怖に支えられた平和」
  • 「ありのままの関係に基づく明日」

どちらを選ぶかは、結局いつの時代も、人間自身の“選択”にかかっている。

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