『エースコンバット7』は「テーマがない作品」というわけではなく、むしろテーマは『エスコン』シリーズでもかなり明確な部類だ。
しかし、そのテーマをプレイヤーに伝えるための演出や構成が弱く、結果として「何を言いたかったのか分かりにくい作品」になってしまった。

本作の中心にあるのは単なる反戦ではない
シリーズを通して描かれてきた数々の戦争終結の代償として、生き残った強者が自国拡張を唱える国家、そして、強大なそれへの依存や崇拝という負の面。そして、現実から目を背けて生まれる「他者への責任転嫁や情報社会における誤認」
そこから人間同士の相互理解はどう至れるのか?というテーマがある。
その中心にあるのが所謂「ハーリングの鏡」であり、オーシア連邦のハーリングといえば過去作では「理想主義的な大統領」として描かれたが、本作では死後に偶像化され、消費されるようになる。

人々は彼の行動を都合よく消費しているという状態になり、開発陣曰く「ハーリングの鏡」として語られ、これは物理的な鏡ではなく、己の見え方を表す言葉でもある。
オーシア軍は報復を優先、エルジア軍は憎悪に飲まれる。
極端な思想へ走る世界でも、終始ハーリングは劇中で意図的に不在の存在として描かれ、その存在をどう受け止めるかは作中人物やプレイヤーの各々次第である。
ただ問題は、そのことがゲーム中だけでは非常に伝わりにくいことだった。
プレイヤーと制作陣の意識の剥離
例えばプレイヤーの多くが覚えているのは
ハーリング暗殺に関するトリガー冤罪事件や懲罰部隊スペア隊の日々、
ミハイとの決戦からの軌道エレベーターの灯台戦争で、
「ハーリングの鏡をどう受け止めるのか」という話はかなり背景に追いやられています。
結果として『7』はミハイやトーレスとの死闘という宿敵との物語として理解する人と、AIと人類の物語として理解する人など、皮肉なことに「ハーリングの鏡」ではないが各々が好きに理解するようになり、作品全体の主題が見えにくくなってしまう形となった。

最終的なテーマは一貫しており、通信網も国家の指揮系統も崩壊した世界で、人々は直接会話して協力し始める。
そこでは国籍や軍といった媒介が失われ、
残るのは人間同士の意思疎通だけ。
だから軌道エレベーターを登るラストも「宇宙へ進出しよう」というより、争いのために用いそうな技術を、人類全体の未来のために使い直せるかという問いに近いし、テーマ自体は非常に明確だった。
ただ、そのテーマを伝えるための脚本構成やキャラクター配置が弱く「開発者インタビューを読むと分かるが、本編だけだと伝わりきらない」というのが『エースコンバット7』の最大の問題だったと言える。
ある意味ではテーマ表現の伝達に失敗した作品
開発側も「テーマが伝わらなかった」というより「物語にはかなり力を入れたが、ユーザーの評価はゲームプレイやDLCの方が高かった」という受け止め方をしている点も、2021年の25周年インタビューでは、開発陣がストーリー制作にかなりの労力を注いだこと、そしてDLCシナリオの反応が非常に良かったことについて語っている。これもテーマは一貫しているが、ユーザーに伝わりきらなかったという評価は多く「開発陣はストーリーに相当な愛情を注いでいたようだが、受け止められ方とのギャップを感じていた」という感想が多い。
実際に河野プロデューサーは発売前から本作のテーマを有人機と無人機や国家と個人などの対立構造を意識していたことなど、かなり明確に存在するが、ゲーム内での提示では断片的で分かりにくい。
結果、プレイヤーの受け取り方も「結局これはミハイの話なのか、AIの話なのか、スクラップクイーンと王女の話なのか分からない」というズレが生じていた。
『エースコンバット8』が直面する課題
近年のシリーズ関係者の発言を見ると、これからリリースされる最新作『エースコンバット8』では「シリーズの物語性」をより重視することを改めて強調している。
これについて思ったこととして、あまり大きな声で言いたくないが「ブリーフィング通りに作戦(ミッション)が事を運んで終わる」というのは『ゲーム的なフィクション』に過ぎないという結論がシリーズで出されたと筆者は感じている。
所謂『ブリーフィング問題』はおそらく洗練されるとは思うが…
実際、『エースコンバット』はシリーズの中でも時代が進むにつれて「計画通りに戦争は進まない」 「英雄は戦争そのものを支配できない」 「情報は間違う」という要素を徹底して描いている。
従来のゲーム的な戦争作品ではブリーフィングから作戦開始し、想定外の事態が発生しても、主人公が解決し、作戦成功という流れが多い。
しかし、過去作では裏切りや策謀、敵勢力の決断もあったが『7』では特にそもそも作戦自体が破綻しており、例えばハーリング救出作戦は失敗するし、懲罰部隊の任務は場当たり的なものが数多い。
まさかのソル隊やアーセナルバードと無人機の投入で残弾はギリギリだったり、ファーバンティ攻略も混乱の中で通信網崩壊し、指揮系統崩壊した状況の中でミッションにあたるなど「軍隊が想定した通りに進んだ戦い」がほとんどない。

国家レベルの指揮系統が崩壊し、オーシア兵とエルジア兵、民間人が現場判断で動く、これは軍事組織の理想像とは真逆。
つまり作品は、ブリーフィングで示された戦争ではなく、現場で人間が対応し続ける戦争を描いている。
誰も全体像を把握できない戦争の中で、人間同士がどう協力するかという話になっているので、根底にあるのは計画通りに行かなくとも、そこを突き抜ける過酷さだ。
だから制作陣の結論を極端に言うなら「ブリーフィング通りに終わる戦争こそリアリティに欠けた夢物語でしかない」という認識は見えてきます。
ただ言い方として誤解を招きそうなので、もう一歩踏み込むと『7』が否定しているのは「ミッションの定められた方向性」そのものではなく「誰かが全体を把握し、制御できるという幻想」であり、ハーリングも、ミハイも、オーシア軍も、エルジア軍も、トーレス艦長ですら皆どこかで「自分なら状況を収束させ、制御できる」と考えていたが、実際には誰も制御できない。
だから最後に残るのは、
「計画」ではなく「対話」
「命令」ではなく「協力」
この発想は旧来のエースコンバットから先の時代を生きる『7』独自の世界観だったと言えるし、そこに向かって「全機、トリガーの周りに集まれ」という流れに乗り切れなかったプレイヤーが『ブリーフィングが役に立ってないから無意味』という感想が抱かれがちになるのだ。そして『エースコンバット7』の欠点でもあったが、彼らが何を批評していたのかを理解しないまま、表面的に誤報の扱いを同じ芸として抽出されてしまうと、この問題が再び槍玉に挙げられてしまう気はする。
12年ぶりのナンバリングでは「ゲーム体験」に重きが置かれた
例えば『7』のプレイヤーのプラス評価で目立つのは、
- 機体の〇〇かっこいい
- トリガー最強説
- 巨大兵器との戦闘が熱い
- エース戦が面白い
しかし制作側が描こうとしていたのは、
- 英雄の形骸化
- 情報の誤認
- 技術への過信
- 国家の限界
もし『8』が「ミハイみたいなエースをもっと出そう」「もっと派手な超兵器を出そう」「もっと主人公を英雄化しよう」という方向だけに向かうと、『7」が積み上げたテーマ的批評や問題意識を自ら否定することになる。
実はこれはシリーズが過去にも経験しており、『エースコンバット5』は戦争プロパガンダや愛国主義への疑問を描いていた。
ところが一部では「ラーズグリーズやハーリング大統領かっこいい」という受け取られ方もされてはいた。
『ZERO』もまた戦争の悲惨さを受け止め、何かを神格化する危険性を描いた作品ですが、結果的にラリー・フォルクやサイファーの伝説性ばかりが語られることが多い。あとMAD動画
つまり『エースコンバット』シリーズは昔から批評したものが神話化されるという現象を抱えており、そして『7』は特に、それらを否定した世界の先を見据えるように「声を掛ける(Can you hear me?)」作品だったはずなのだ。
だから『8』で本当に危ういなのは、ゲーム的な娯楽性を求めるあまりにシリーズ的な脈絡をあえて無視して、神話をそのまま供給してしまったりすること。
もしくは逆に『7』からの難解なテーマや断片的な語り、多視点構成をさらに強化すると、今度は何を描きたいのか誰にも伝わらなくなるという『二律背反』を背負っている。
実際『7』の最大の弱点はテーマではなく伝達不足で、DLCでは敵味方の目的が明確で、宿敵トーレスの思想もネタにしやすいし分かりやすい、それでいて『7』のテーマ(時代を照らす灯台、戦争の狂気、情報操作)は維持されている。
だから、本編より評価が高い傾向があり、もし『8』が目指すべきものを一言で言うなら「7のテーマ性とDLCの伝達力の両立」にあると言える。
それができなければ、「派手で面白いが薄い」あるいは「深いが伝わらない」のどちらかに転び、再び賛否の中心地になる可能性があると感じてはいます。
映画でも再評価に時間がかかる「体験問題」
ゲームという媒体の性質上、プレイヤーはまず「体験」を記憶し、「テーマ」は後から解釈するという構造がある。
『エースコンバット』で言えば、多くの人がまず覚えているのは難しいミッション、熱いBGM、エースとの一騎打ち、巨大兵器撃破となっている。
これは自ら操作するゲームだからこそ猶更として、自然な受け取り方ではある。
例えば、同じ戦闘機パイロットのドラマを描いた映画『トップガン』も「軍事と青春劇の映画だ」と受け取る人もいれば、「戦闘機アクションが格好いい映画だ」と受け取る人もいる。

後者が必ずしも幼いわけではないが、別の問題はある。
それは近年のネット文化全般に見られる「消費しやすい(バズりやすい)部分だけが共有されやすい」という現象。
例えば『エースコンバット7』なら、歴代主人公vsミハイやらトーレスの狂いっぷりは語りやすい。
一方で、「ハーリングの鏡」や灯台戦争、国家の限界、情報戦の問題は最近では現実性を帯びてきてはいるが、語られにくい。SNSでも短く伝わる話題の方が拡散しやすいので、どうしても前者が目立ってしまう。
これは『エースコンバット』だけではなく、例えば映画『スター・ウォーズ』もジェダイのライトセーバーや宇宙規模でレーザーが交わされる戦争映画として有名ですが、実際にはかなり強い風刺がある作品です。
特にシリーズ悪役「ダース・ベイダー誕生」の前日譚に当たるエピソード1~3(プリクエル三部作)は複雑な政治劇から一転して洗練されたチャンバラ劇場が見せ場として受け止められがちで、CGの美しさやカッコよさばかり消費され続けて、これらの風刺やテーマ性に目を向けられて再評価を受けたのも時間が経ってからでした。

また『ファイト・クラブ』も、社会批判や男性性への批判を含む作品なのに、どっかの自称メンズコーチがやりがちだけど主人公たちの在り方を手本にすることだけが切り取られることがあります。

つまり、作品が批評している対象そのものが人気になるという現象は珍しくありません。
『エースコンバット』シリーズにも人気作では似た傾向はあり、
『ZERO』は戦争の悲惨さや危うさを描きながらサイファー神話を生み、
『5』は戦争プロパガンダを批判しながらラーズグリーズ神話を生み、
『7』は英雄依存を批判しながらトリガー神話を生ませてしまった。
これは物語を神話化したがる傾向と言った方が近いのか『エースコンバット』コミュニティは昔から、エース最強議論やら撃墜数競争、機体性能論が非常に人気で、そのため作品の物語性や哲学的テーマよりも「誰が強いか」「あのミッションは楽しいorつまらない」 「どの機体が強いか」に話題が集中しやすい文化はある。
しかし、それは「フライトシューティング」というジャンルが本来的に持つ競技性やヒロイズムから切り離す方が無粋であるのも否定できない。
むしろ『エースコンバット7』の難しさはそうした「英雄性に憧れるゲーム」の形式を使いながらその内部で「強大な何かに陶酔したり、依存する危険性から抜け出して『個』であること」を描こうとしたことにあります。
だから作品とファンの間にズレが生まれやすかったのであり、時代が追い付いた部分もあって発売当時の2019年よりも伝わったり、心に響くものがあるのではないかと思う。
今こそ是非手に取って、ネットではなく自分の気持ちを大事にして体験してみて欲しい。
次回からは少しずつ、シリーズ作品の細部についての解説考察を進めていきます。