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自己紹介|ADHD等の「発達障害」や内面を明かすのに言葉にならない抵抗感や悩みについて

自分がADHDとASDの併発であると診断されたのは、つい最近のこと。

昔から落ち着いた子や穏やかな雰囲気があるように言われますが、症状としては頭の中で「思考の切り替わり」が激しい上に「構造化」「論理的解釈」などの傾向が加わっているもの。
なので「他人の行動や言動を解き明かそうとする」または「意図を過敏に読み取ろうとしてしまう」というのが基本状態としてあります。

この結果として知覚過敏になりながら現実に振り回されることで「考えすぎて疲れやすくなる」こと。
また「自分と他人の境界が混ざる」といったストレスを感じることが非常に多かったです。

そして、社交的な場面で「場の空気に合わせて話す」「適当に流す」といったことが非常に苦手に感じられるのは、幼少の頃から一貫してきました。

良くも悪くも「アイツは違う」的な扱いを受けてた中高生時代が楽しかったかと聞かれれば、答えは「No」としか言えません。

「発達障害です」と語ることへの、言葉にならない抵抗感について

ずっと「そうじゃないか」と思っていた部分はありましたが、仕事で移り住んでた九州から実家に帰省してからも症状が止まず、あまりに耐え難くなったので診療所に向かって正式に名前がついたときに腑に落ちる感覚と、同時に言い知れぬ距離感があった。

この診断名をこれから自分から語ることに対して、どこか引っかかりがあるから。
そしてこれを言葉にしてみると、それを他人に説明しても何も変わらないという諦観に近い感覚や、こういうのは「共感する立場にある者」が明かすもので、共感されたくて語るのは「自分を認めて欲しい」と弱ってるからではないかと考えてしまいます。

「発達障害です」と言うことが“免罪符”のように機能していることを願っているのではないかという自身への忌避と抵抗感だ。
もちろん、発達障害というのは「甘え」ではない。
それは生きづらさを構造的に抱える“気質”であり“身体性”であり“環境との相性”の問題だと、頭ではわかっている。

でも、それを他人に語るとき「この人は自分に配慮してくれるだろうか」「自分の困りごとを“理解してくれる人”として扱ってくれるか」と考えてしまう。

それはまるで「前置きとしてハンデを差し出しておくから、こちらを傷つけないでくれ」と言っているようにも思えて、どうしても気が引けるものになる。
“語ること自体が、他人の自由な反応を縛ってしまう”ような気がしてしまうし「特性だから仕方ない」と語ることが、時に関係性を歪めてしまうということを考えてしまうのだ。

さらには、こういった不理解に近い民意や科学的根拠の乏しい療法があたかも“希望”のような面をしてとして売られるビジネスマンの台頭、根拠なき情動や陰謀論に訴える団体が一定の支持を集めている現状からして、深い孤独感と徒労感が押し寄せてきます。

語ること=共感されたいこと=弱さなのか?

自分の診断名を話すとき、「共感してほしい」「認めてほしい」という欲求が透けて見える気がしてしまう。
だがそう思ってしまうのは、たぶん自分自身が“強さ”にこだわってきたから。人に共感されたい=弱っている証では決してありません。

むしろ、自分の現状を言葉にするという行為は、自分の心の輪郭をつかもうとする努力そのものです。弱さというより、誠実さや勇気に近い。
本当は誰だって「自分はこういう人間だ」と安心して言える場を求めている。語ることは甘えでも逃げでもない。

それは自分の心の輪郭を、自分自身に向けて照らし直す行為なのだ。
世界といった「大きな流れ」ではなく、小さな営みのなかに「人間らしさ」は宿っている

自分のエネルギーの使い方や、人との距離、自分の限界の線引きがしやすくなる。
そういう「内的な変化」が、後からじわじわ効いてくることもあるし、それを見つける視点を持つだけで、世界とのつながり方が少しずつ変わります。

語らないという選択も、立派な「自己決定」だ

こんなふうに自分が発達障害であることを語るべきか、黙っているべきかではなく「誰に語り、誰に語らないか」を自分で選ぶ自由があるのだ。語らないのは、逃げではない。
それは「関係性を見極める強さ」だし「語らなくても自分の尊厳は失われない」と信じる意志の表明でもある。

現実は劇的に変わるわけではない。
相手が変わってくれるとも限らないし、社会が理解を示してくれるわけでもない。だからこそ、語ることに疲れるし、「結局、話しても意味がない」と思う瞬間もある。

でもそれでも――語るという行為には、自分自身を認めていくプロセスが含まれている。他者の理解ではなく“自己理解”のために語ることもある。それは、自分と折り合いをつけるための小さな試みだ。

また「どうすればいいのか」と問うていること自体が、
この世界に対する小さな希望の種でもあるとも思えはしないだろうか?
「絶望しているのに希望を持たなきゃ」と自分に強いてしまうと、さらに疲弊してしまいます。

だからこそ似たような悩みを持っているあなたも「今は希望は見えてない。けど、それでも壊れてはいない」と認めてもいい。

希望は持たなければならないものではなく、ふと湧き上がってくるもの
その芽が出るまでは、ただ立ち止まって、自分の呼吸を確かめていい。

その痛みや疑問を、正直に抱えたままでいてください。
答えを急がず、その問いの中にあなたらしさがあると信じて生きてみることが大切なのだろうと私は思う。

語ることができるようになる日まで

発達障害を語ることが、いつもすぐに「理解」や「受容」につながるわけじゃない。むしろ言い方や伝え方によっては誤解されたり、利用されたり、軽く扱われたりするリスクもある。
だからこそ、語ることには勇気がいる。
そして、語らないという選択にもまた、同じくらいの勇気と覚悟がいる。
今の私もまだ、その間を行ったり来たりしている。

ただ、自分の意見や感情を発することを後悔したり臆することが多かった分、「表現すること」が純粋にすごく楽しかった。
なので「見に来てくれた人には伝えてもいい」と感じたとき、または「こう語りたい」と自然に言葉が浮かんだときが、きっとそのタイミングなのかもしれないと思って書いてます。

それまで無理に語らなくていいし、語る自分を否定しなくても大丈夫です。こういった葛藤そのものが、すでに深い自己理解のプロセスに入っている証拠。伝え方や距離感に慎重になること、それこそがあなたの誠実さであり、まったく恥じるものではありません。

言葉を選ぶ慎重さはそのままに、自分の気質を語ることもまた「相手との調整」や「関係の入り口」として使っても良い。
「自分自身と他者の両方」を大切にできるようになったら、きっとまた、少し違う風景が見えてくるのかもしれないと思います。

自分と同じく生きにくさを抱えてる人、ある種の「適応障害的な内面の葛藤」を抱えてる方に向けて書いてますが、この記事の言葉があなたの人生の一助になれればうれしいです。

こういったコンテンツも展開していきますので、良かったら記事のスキやSNSフォローなどもよろしくお願いいたします。


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