『Life is Strange』シリーズは、「選択とその結果」にフォーカスしたインタラクティブなドラマ作品として高く評価されてきました。しかし、その「選択の意味」は、開発を担うスタジオごとに大きく姿を変えています。
元祖であるDONTNODが手がけた『Life is Strange』『Life is Strange 2』は「普通の若者が、突然の出来事に向き合い、自ら選び、責任を引き受けていく姿」が描かれていました。
一方で、Deck Nineによる『True Colors』では、「『共感能力』を持った特別な存在としての主人公アレックス」が、感情に寄り添いながら物語を導く構図が採られています。
ここにこそ、シリーズを通して大きく揺れ動いた「主人公像の変遷」が表れています。
DONTNOD作品に見る「選択」と「責任」
DONTNOD作品に共通しているのは、選択」と「それに伴う責任」の描写の深さです。
無印主人公であるマックスはタイムリープの力を得たにもかかわらず、最後には「一人の命と街の命」という選択の重みを引き受けることになります。
クロエは素直だった自分の生き様から大切な人を守るために「嘘をつける」ことで何を守れるのかという二律背反の選択。
ショーンとダニエルの旅もまた「逃亡者として生きる」ことの苦悩。
「弟にとっての行動指針になる」ことの葛藤が貫かれていました。
彼らは「選ばれし者」ではなく「選ぶことを強いられた者たち」だったのです。



Deck Nine作品に見る「能力」と「共感」
一方、Deck Nineが手がけた『True Colors』のアレックスは、共感の能力という「特別さ」を起点にしたキャラクターです。彼女の魅力は、人の痛みに寄り添い、真実を暴き出すその力にあり、物語もその能力がいかに活かされるかに比重が置かれています。

しかし、その“能力ありき”の関係性構築は、「選ぶ痛み」や「責任の重さ」といったテーマの厚みを削いでしまっているように見えるのです。
『トゥルーカラーズ』におけるアレックス・チェンは、感情を読む能力を通じて人と繋がっていくキャラクターです。
けれど、プレイヤーから見ると彼女自身の主張や意志よりも、周囲に影響されながら「何かを察して対応する」受動的な姿勢が目立ってしまう。
その一方で兄ゲイブ・チェンは、登場時間は短いながらも「過去を悔いながらも今を精一杯生きている。
「妹を引き取って居場所を作ろうとする」「仲間たちの中心にいる」など、まさに“人間ドラマの主役”のような輝きを放っています。
ある意味では、これは2におけるショーンが務めた役割でもありました。

『True Colors』に欠けていたもの
アレックスの物語は、Deck Nineの方向性もあって「癒し」や「再生」がテーマです。しかしそれゆえに彼女の能力は「傷ついた人のために役立てる手段」として過度に描かれていて、プレイヤーとしては「彼女自身の痛み」や「主体的な生き様」が見えにくくなってしまっている。
言い換えれば、他人の“仲介役”になってしまっている。
そのため、DONTNODの作品のように「自分自身の選択に向き合う」「重さに耐える」主人公像と比べてしまうと、アレックスの旅路はやや“選ばれた物語”として整いすぎていると感じられるのかもしれません。
彼女の選択には、マックスやショーンのような「痛み」や「取り返しのつかない代償」があまりに薄く感じられます。
『LiS2』や少なくとも能力を持たない『Before the Storm』では、主人公クロエが「どう生きるか」「何を守るか」を常に突きつけられ、その選択が本人や他者の運命を大きく変える構造になっています。

『True Colors』では、アレックスの選択はどれも比較的安全で、リアクションも予期に基づいたもので感情的な衝突が避けられているものがあります。特に、ゲイブの死を巡る展開は、彼の存在感の強さからして「アレックスの成長のための犠牲」として不可避のものとして処理されてしまったようにも映ります。
この物語に欠けていたのは、「成長の代償」としての痛みとそれに伴う「選択」です。これまでのシリーズ作品ではショーンとダニエル、クロエとレイチェル、マックスとクロエなど、相手との関係性が自己を変化させていくような葛藤が深く描かれてきました。
しかしアレックスの周囲の人物は全体的に“優しすぎる”傾向があり、緊張感のある対立や裏切り、感情の破裂点や不可逆な選択が起きにくい構造です。なのに、力が物語を動かす主要ギミックになっており、能力を使わなければ進まない場面が多い。
一方で、能力を持たなかったショーンやクロエは「能力を持たないがゆえの苦悩」や「自分に何ができるのか」を模索する人物です。
→その視点を見失った『True Colors』では「能力が物語を動かす」が先に立ち人物自身の成長や変化が後退していると感じられます。
ゲイブという“もう一人の主人公”の重み

ゲイブは、アレックスの兄としてだけでなく「家族を守ろうとした一人の男」として強い存在感を放っていました。
彼は実直で、無力感や後悔も背負っていながらも、愛情と行動で道を切り開こうとしていた。
その姿こそ、「Life is Strange」シリーズが描き続けてきた主人公像——自分の手で現実を選び取る人間像にふさわしいものでした。
ショーンはまだ高校生ながら、突然の悲劇で弟を守り、逃げながら、時に暴力も厭わずに“弟の親代わり”として歩き続けようとした存在。
ゲイブもまた、家庭を失い、過去を背負いながらも、自らの力で人との関係を修復し、アレックスにとっての「最初の居場所」となってくれる。
彼らに共通するのは、能力がないにも関わらず「他人の人生を背負って生きる覚悟」を持っているところ。
その覚悟や不器用な誠実さが「ライフイズストレンジの主役らしさ」=人間臭いリアリズムと決断の重さを強く感じさせたのではないのかと思う。
ゲイブやショーンのような「普通の人間として葛藤を抱えながら、何かを守る存在」に惹かれること。
LiSシリーズの原点はやはりマックスやショーンのような、能力があってもそれに苦しむ、そして選び続けることの難しさに耐える人間ドラマにあるのだと思います。
Deck Nineのスタンスが悪いわけではなく、むしろ「新しい癒しの形」として受け入れられている側面もありますが原点である「自分の中の苦しみと向き合っているかを軸とする」という意味では、マックスに戻った最新作もどう映ってるのか正直疑問視するところはあります。

本質は「自分の人生をどう選ぶか」
『Life is Strange』シリーズの本質は、「特別な力」ではなく、「どんな状況でも、自分の人生をどう選ぶか」という問いにあります。
DONTNOD作品は、まさにその問いをキャラクターたちに突きつけ、プレイヤーに“痛み”とともに選ばせてきました。
Deck Nineはその力を表現として活かしながらも、時に「選ぶ痛み」からプレイヤーを遠ざけてしまった。
だからこそ、私はゲイブのような「力のない人間」が放つ輝きを、アレックス以上に“主人公らしく”感じてしまったのかもしれません。