ライフワークバランスの過剰負荷と逃避
現代の殺伐感を口で説明しようとすると要因は数あれど、おそらくもっとも言及しなければならないのが「人間が賢く合理的な生き物」だと思い込み続けていることにあります。
絶対値ではなく他人との比較から生じる相対で価値を感じるのが人間だからこそ、世界がネットワークによって可視化されたことで見栄や意地を張って共通価値である「お金」「人気」を掴むことが夢とか目標と「逆転」し、いつしか比較対象である他者から見下されないためだけの努力と化す。
そんな世界観を築いたからこそ、見ているコンテンツも自分は「他人から見ても意義のあること」だと本心(脳)を誤魔化して自分の価値観を麻痺させることに重きを置く。だから「これを見ているあなたは『稼げる』『賢い』『目覚めた』『勝ち組』なのだ」という論理も道理も倫理観に欠けた適当なコンテンツが跋扈するようになる。そして「理性」や「感受性」が死んでいき、誰かのお告げや観念に縛られてしまう。
他者との比較、不安や承認欲求、それを解消して満たすための「フラストレーションの解決」を情報社会に求めてその背後にある「搾取」の構造です。搾取されているのに「等価交換できてる(価値がある)」と思わせることが真の搾取の在り方で、発信者を肉体を持ったリアルな存在と感じ取れないから想像力が貧困化し、どんな「人間」でどのような「意図」を持っているのか目を向けないまま「言われるがまま」であることや、遠巻きから見ているだけの相手の切り抜きで「善人」か「悪人」か断じようとしたり、現代人は余計に悪化してるところもあります。
そういう情報取得の歪みのために「ニュースを見ること」の延長でネットに手を出している層は他人との差を付けようとしていながらも、「ファクトチェック」や一次情報を怠って遠ざかって出所の怪しいアカウントを真に受けたりする光景がネット上で増えて「怠惰なのか」という心からの嘆きの声も仕事関係で聞きます。
おそらくこれは、労働者の善意や感情すらサービスに内包されてしまった商品として扱われて「感謝はされないが欠かすと苦情が来ること」に似ている。
本気で情報にアクセスできる時代だからこそ、論文を読んだり情報の査読、社会的背景など情報の濁流が可視化されて従来のニュースのように「記憶だけでは何も理解できないし解決しない」ことが突きつけられており、その労力を避けようと見て見ぬフリをする自己暗示して「情報収集の仕事負荷に実は耐えられない」のだと私は感じてます。
お手軽に答えだけ求めて実際に自分の目で見て確かめてみるのが手間という昨今で呼ばれる「コスパ思考」もこれにあたるのです。
無自覚なコストパフォーマンス思考による「コミュ障」
この「コスパ思考」が自分に該当していることに無自覚な人間が現代では増え続けてきており、もっとも厄介なのが自分の「鬱屈とした感情」に起因している自覚が無い故に、コスパとやらを重んじて中々自ら修正できないことにあります。
「ライフワークバランス」というのも文字通り、ワークで摩耗すると「ライフで苦労する」ことを避け、ひたすら目の前にある物の「消費の快楽」で誤魔化すように人は流れてしまう。
情報弱者ビジネスの横行は何故見過ごされるのか
そうして「結論」や「結果」に飛び付こうとするあまり、よく分からない輩に絡み取られて感化されたり、自分の中での結論ありきのことを口走るようになる。
技術と共に選択や可能性が広がったライフもワークと同様に「実はとてつもない労力を求められる」という現実を突きつけられ、そこから逃避している人間社会の様態がYouTubeやSNS上でデマや盗作が跋扈してもそれを気にしなかったりマネタイズが叶ってしまう正体なのでしょう。
「説明してもらえば分かると思ってること」自体が既に「自分の想定内の話」であるという前提の上で成り立っているから「他人の話」が通じないしそういう話を探しに行ってしまう。分からないけど、分かったように話す人についていってしまう。考えたくないから、人の言葉を鵜呑みにしてしまう。
頭が頑強ではない(ストレス等を感じたくない)から人に質問しているようで、物事が「自分の額縁」に納まるように納得しようと現実を歪ませるというのが、子供の頃から自分に立ち塞がってきた「敵」として悩まされてきた事態が時代が進む毎に顕在化し続けており、最近もまた苦しめられることが増えてきてます。
物事の一部分を切り抜いてそれが全てであるかのように納得しようとしている人間の脆さや現状は非常に深刻で、自分が世界の中心にいる主人公だと思ってしまうから「自身の誤りや騙されてしまう」ことを認められなくなる。
「アテンションエコノミ―」に呑まれたSNSはそういう面でも道を誤り、世界と触れ合わないためのツールと化しており、老若男女共に情報がもたらす知識は「アップデートするものであって固執するものではない」ってことを理解してないんだと思います。
それを認められないまま自分の耳心地の良い人間で囲おうとする「人間依存症」が子供だけならまだしも、普段なんてことない顔して電車にいるような成熟したはずの大人達。
朝起きたルーチンとして開いてニュース気分で稚拙なディスり芸を覗きに行って言葉を真に受ける「コスパ思考」を自覚しなければ、今の閉塞感や無力感が解決することは決して有り得ないし、合理性や効率性に準じるからこそ、今以上に自分ではなく何かの所為にし続けられる「仮想敵」を求めることは明白だと感じてます。
根本的に「確実」「不確実」の先を見据えろ
文明の利器がどれだけ進化したと言い、それが事実だとしても、人間の本質や人間を形作る問題は変わった訳ではない。
「君たちはどう生きるか」各々の生き方を問われているのに「どう生きる“べき”か」を捉えようとする認知の歪みなど、未だに憑りつかれている「他者との比較行動」から生じる「経済性、利便性、効率性」を占有し続けている一元化一律化の「である」価値に囚われていること。
これがおそらく「幸福度が低い」とされる人間存在の本質的な生産や生きる活動から遠ざけて、より閉塞感を与えさせていること。
人々の幸福観や行動に偏執狂(パラノイア)や恐怖心を増大され続けている部分から解決せねばならないという懸念があります。
十全な世界は経済的な豊かさから「コンプリートされる」という錯覚によって言葉を「言葉通り」にしか受け取れない人、刺激に頭がついていけずに微動だにしない人々による「意識」も「倫理」も無い「入力コード(成長)」への盲信や追求は危うい。
バブル時代のノリを引きずって土地や株価が延々と上昇していかない「無際限な右肩上がり」と「幸福」を結び付けてそうじゃなきゃダメなんだと「金銭のみに価値を据えて国家と自己を同一視する在り方」は自分自身の幸福とイコールとは限らない「理念無き発展」という暴走に近しく、この自己破壊に寄ってる状態に直視したら遠からず死にたくなるだけだと思いますが、そういう無思考による逃避が増え続けている。
また、ルールやら体制やら技術は人間性から離れていく方向へ、人類は着実に進んでいますね。それに抵抗しようとする姿勢もありますが、大半は利益を貪ったり大衆を集客するための宣伝目的なのも大問題です。
「身体性」に目を向けて始まる本当の生
人が繋がる為には「特定の消費を共有する必要」があったりする。
『オトナ帝国の逆襲』の解説考察で筆者が触れたように「20世紀」や「懐かしい」が良いのではなく「自分の身体性」が健全かつ機能していたから良いのだ。
喜怒哀楽を伴って考える時間や「誰かと同じ空間に没入して祈る時間」を人と共有できたから輝かしく感じるわけであって、それを無碍にした常にスマホ片手の「ながら見」の営みなど、デジタルが生み出す生き甲斐への負の影響を考えさせられている自分としては、かつての充足を知るはずのオトナ達が教え伝えなければならない筈が、それを見失っているような気がしてなりません。
生きるとは「思考する(自分自身を感じる)」ということで、ひたすら消費して何かを獲得したと錯覚して満足してみたけど”考える”って事を全然しないと「身体(自分)」が伴わないから充足されない、というのは過去の想い出が綺麗なオトナだからこそ言語化できるようになると思います。
調べて選択する、ということだけに過剰にハマる人達の共通点には心の安定性もとい「依存心」があり、どんな知識もとりあえず吸収するというゲーム感覚に若者に限らず大人たちが夢中なのも、否定したはずの詰め込み教育と全く同じ概念の下で生きて均一化の下に生まれる競争、あくまで比較行動からの「承認欲しさ」であって物事を読み解いたり実質的な価値を計ることは二の次というか皆無です。
そうして、正解を見つけて人を負かしたがる風潮やらリニア式な線上としての結果にしか目に行かなくなってしまい、物事の本質を考えたり、自己そして他者の存在を肯定することが本当にできる日が来るのか?と内心荒れ狂ってる日々が続いてます。
子供の頃からの思考回路として「論理性も抽象性もないインプット」や何故自分がカラオケ嫌いでこれで歌唱力競い合うっておかしくないかと混乱してきた中、養老 孟司の著書が言語化してくれていたので紹介しておく。
自分という個の存在が「飽和の渦」に導かれている状態を把握すれば「当たり前だと思っていたことが当たり前ではない」ことを自分を再定義する方向に向けられたり「解像度の高い経験」をもたらすものであることを知ることができる。
それが欠けた人達は騙せてしまうし、騙されていることに気付けなくなる。教養を誤魔化そうと理解が難しいことを自分好みの解釈に貶めてくれるコンテンツやら、自分を甘やかしてくれる他責的な「宗教的なものが横行している」こと。
これは私自身が気に食わない以上に、今もなお力を付け続けているのが、本当に恐ろしいことだと幼い頃から影響力を実感し続けている分、危険視しています。
時代と共にムチャクチャな暴言が増えている
マーケティングを理解されてる方は口にするまでもありませんが「支配の言説」は共通事項として「貴方の危機だから」という思想を植え付けて金儲けしている輩から生まれます。人間は不安と猜疑心に包まれた時、憎悪の対象を求めることで自己防衛を図る。
だからこそ怪情報のアカウントは活発化し、それに影響されて自己顕示欲を持て余した輩がその声を生かしてビジネスに誘導したり、自分の下に案内する。「社会や政府が悪い」やら世論がねじ曲げられたのではないか等の疑いを煽るためのお粗末な言説や加工でもロシアや中国などは、そこに攪乱を仕掛ける好機として見出したしTwitter/Xでは引っかかる人は引っかかるし、ちゃんと効果あるなと力無く笑ってしまったのは筆者の記事をご覧通り。
PVビジネスとしてのアテンションに目が行って二元論的な「極論」の世界に囚われて何かを盲信したり、便利化・効率化される世界の航路に異議を唱えないくせに過去を美化するだけで「手触りゼロ」を文句言いながら受け入れてる矛盾する人生は生き地獄だぞ、という危惧を基に繋がりを形成しなければならないことを唱えてるけど、コレが伝わらないであの頃は良い時代だった的な話しかしたがらないオトナがマジで多い。
コスパとか便利とかはもう食傷気味で、まず英語より「言葉」についてを考えたり勉強することから始めなければ何も生み出せない。
他人から見て「体裁が良く」「羨ましがられるかどうか」を考えるから居心地が良いコミュニティに拘るようになるのは、テリトリーから飛び立たない理由と承認を得ることで心の安定を得られるものとして「孤独と自分自身」から逃げるようになることを意味する。
自分自身の非や問題を考える必要がないという事態の「邪悪さ」がわからなくなるからこそ、一方通行の発信行為に擦り寄ったコミュニティに何かを得られたり学べるわけがないのだ。敵意や悪意を伝搬するものなら、SNSに価値なんて与えるべきではないと切って捨てられる世界になれれば、前進するのかなと思う次第ではあります。
結局、情報が速くなっても古来からの人類の問題は、何一つ解決してないことに見向き出来ていないのに、早とちりなシンギュラリティ論でありがちだが進化するのは「彼らコンピューター」であって人間ではない。
人間も自然界から誕生した自分の生に「意味」を与えることが出来ていないし創造物に意味付けできていないレベルなのに、何を期待やら過剰に恐れたり一喜一憂しているのかと疑問を抱かざるを得ません。
目先の社会常識や固定観念に捕らわれることを止め、広い視野と柔軟な感受性を持つように努めることは誰が何をしたかということより「自分がどのようなスタンスにいるのか」ということを自覚し、それを語れる言葉を持てるならネガティブな要素は逆転の発想によってパワーに変えることができる。
そこに焦点を当てることで異なるライフスタイルと発展に繋げられる可能性があり、人間はコンテンツを求めてるわけじゃない「体験」を求めてるという原点回帰とそれに準ずるビジネスモデルは従来の完璧な「ものつくり」よりもおそらく価値が大きく生まれる。
他人と話して笑って新しい知識を得たり「一緒に考えながら共有する」「共創する」ことが「喜び」を連鎖させられる場所作りを掲げることを、私は伝えていきたいと思ってる次第です。
向かい風しかありませんけど、自分の肉体が感じることが「現実」だということは伝わる人は多いです。
その関係や関わりをもたらした「アナログ」だと言われてた「行為」や「個々の繋がり」が、本当は人生を豊かにしてくれることというロジックへの回帰であり、共同体への忠誠心に過ぎない帰属意識に拘るより、ネクストステージで個が繋がりあった集団としてなにか新しい特性が生まれるはず。
そういう話をして、身に感じるものがあれば今後の活動で力が入るのでありがたいです。