『遊戯王VRAINS』を読み解く上で必要なのは仮想空間を生きたキャラクターが現実に戻れているかどうかという軸。
本作は終始、LINK VRAINSというネット空間を舞台にしていますが、そこは単なるデュエルの為のフィールドではなく、
- 傷ついた現実から逃げ込む避難所
- 承認や役割を得るための仮面の世界
としても描かれていました。
VRAINSの登場人物たちは皆、何らかの理由で現実に居場所を失いながらも、ネットに“意味”を求めた存在です。
これは本作のコミカル役を務める島も同様に、ブレイブマックスという仮の人格を形成させている。

俺みたいな一人でいるやつにわざわざ声をかけるのは孤独で寂しがり屋
第一話 藤木遊作 島に対して
制作側の決定打は何だったのか
VRAINSは放送当時、テーマが分かりにくい作品でした。
歴代作品と比べて少なめの話数によって、打ち切りや三期で終える構成の変更・制作トラブルが語られがちですが、結果的に浮かび上がった中核は非常に一貫しています。
それはネット社会における“自己”と“承認”は、人を救えるのか、それとも歪めるのかという問いです。
2017年当時、SNS・配信文化・仮想人格(VTuber的存在)が急速に一般化して「ネット上の自分が現実を侵食する」現象が顕在化し始めていました。VRAINSはこの変化を、子ども向け作品としては異例なほど正面から扱っています。
描写は圧縮されましたが、テーマ自体は途中で変わったというより、語り切れなかったと見る方が妥当で、この観点に立つと、本作のキャラクターは明確に二分化されている。
VRAINSは「途中で迷走してこうなった」のではなく、最初から“伝わらないことを覚悟したテーマ”として、それを支えるだけの視聴環境とシリーズ文脈が、当時は整っていなかったこと。
おそらく決定打は「リンク召喚=ネットワーク」という設定に絡めたのがVRAINSで最初に決まった核。
そして、キャラでもストーリーでもなくデュエルがネットワーク上で行われる世界を築いて見せた。
ここで制作側は、
「これは子供向けの成功譚にはならない」
ということを最初から理解していたはずだと思われる。
「どんなやつかと期待したが、正体がミイラ男だったとはな」
「私にはネットで素顔を晒す心理の方が分からんね。ネットで正体を知られるなど、デメリットでしか無い」
遊戯王VRAINS第50話
Go鬼塚
ブラッドシェパード(道順健碁)
復讐(1期)を終えた「遊作(Playmaker)」の成長について
彼の変化として重要なのは、復讐(正義)を「戦う理由」にしなくなったこと。

これは“治癒”というよりも自立への道を歩み始めたことを意味している。
彼は自分の手で何かを否定して奪い去るルートを拒否し、ネットではなく現実の学園生活を主体に据え、プレイメーカーは姿を見せなくなったこと。
「承認疲れ」「アルゴリズム社会」はまだまだ言語化されていなかった中、仮想世界(LINK VRAINS)を手段として扱えることも大きい。
世界や他者に対し、自分の選択として責任を持てるようになり、宿敵であったリボルバーにも肩を並べられる未来があると語って、前を見据えたこと。
この遊作の成長に対し、
- 仮想世界や理念を自己正当化の拠点にしてしまった
- 「選ばされた」という被害者意識から一歩も進めなかった
- 正解・使命・計算に人格を委ねた
これらの敵が二期で立ち塞がり、
その中にはあの「Go鬼塚」の姿もありました。


鬼塚はVRAINSにおける“ヒーロー幻想”の実験体
おそらく彼は「強さ」そのものではなく「称賛される自分」に依存していた。
プレイメーカーに敗れ、存在価値が揺らいだ瞬間から、彼は危うい選択を取り続ける。
そうして負けた先で行き着いたのが人体改造から生じる人格の歪み、執着──それらは過剰演出ではない。

GO鬼塚が長期間「自分を見失い続けた」のは、
彼だけがVRAINS世界で唯一アバターを自我としながら、名声や承認を“実利”に換金して生きられた人間だったから。

だからこそ、壊れ方も、執着の深さも、他キャラより露骨になった。
彼の価値は一貫して
・守っている子どもたちに支持されること
・カリスマデュエリストのランキング付けなど、視聴数・スポンサー・話題性によって、勝つ姿を“消費”されること。
つまり、自分で選ばなくても「承認が与えられていた側」にいたのがある。
この時点で、遊作やリボルバーとは土俵が違う。
鬼塚はヒーロー像、社会的地位、金、居場所、観客というすべてを「承認」と引き換えに手に入れていた。
だから一度負けると、
- 価値がゼロに近づく恐怖
- 代替の自己像がない
- 内面に立ち戻る術もない
つまり、精神的に一番立て直しが効かないタイプとなる。
鬼塚の掲げる「プレイメーカーを倒したい」というのも、これは表層であって、彼は負けること自体は悔しくても、それは事実として飲み込めるタイプだ。

だが、深層心理として彼に迫っていたのは、プレイメーカーを倒さなければ“自分には価値がない、求められないという事実”を受け入れなければならないこと。
その「内面の脆さ」を「自分を負かしたプレイメーカーを打倒する」というパッケージで覆い隠しているのが本音だ。

鬼塚にとってプレイメーカーは、決して憎い敵ではないし、理念的な対立相手でもない。むしろ良きライバルになれる可能性は秘めていた。
だが、彼の内面といわゆるネット上の反応によって、槍玉に挙げられる比較対象として“最悪の存在”として立ってしまった。
なぜなら遊作は承認を求めておらず、勝っても喝采を欲しがらない。
その上で、それでも最前線に立ち続けるという意味で、鬼塚とプレイメーカーは同じ土俵に立っていないと言ってもいい。
鬼塚は心のどこかでそれを分かっていたし、分かっていたからこそ一度自分を負かした相手として認めてたはずのプレイメーカーすら否定するようになってしまった。

VRAINS1期を支えたキャラたちが抱えるもの
VRAINSは一貫して「承認を存在理由にすると、それは己自身や人格を削る方向にしか進まない」というのをGo鬼塚とブルーエンジェルで掲げている。
鬼塚は
- 勝つためならアイデンティティを捨てる。
- ヒーロー像を守るためなら人間性を捨てる
- 見られるために自分を壊す
これは誇張ではない現実の承認経済のメタファーでもあり、フォロワーのために人格を歪め、再生数のために身体を壊して、評価を失わないために自分を偽る。
鬼塚はそれを“視覚化”された存在でもある。
彼はある意味では、普遍的な人間の存在として、
- 被害者ではない
- 天才でもない
- 理念もない
「普通に成功して、普通に転落した」

このタイプが、承認にすがって自分を壊し、戻れなくなる道を行こうとしているという展開は、VRAINSの中で現実的で一番きついものとなる。
彼は最後まで「自分と向き合う」ことに失敗し続けた。
だから回復が遅く、歪みが深かった。
葵は『ブルーエンジェル』から卒業させられる必要があったキャラ
普通の作品なら名前のフォームチェンジは大成や成長の証として扱われる。
しかしVRAINSでは、人々の人気を集めるアイドルから脱却して個人に拠っていく。
- ブルーエンジェル
→期待される『役割』や『物語』を演じる姿 - ブルーガール
→戦う理由を探す仮の主体性 - ブルーメイデン
→自分一人で選び取る存在
一貫して「役割を剥がされていく」構造となってる。
『カリスマデュエリスト』として完成された『ブルーエンジェル』
ブルーエンジェルはシリーズでも珍しく、
- 初期から人気がある
- 視聴者・運営・ファンに愛される
- 明確に成功している一種のプロデュエリスト

アバターで彼女はGO鬼塚と同じ“承認経済の勝者”。
しかし、ここで重要なのは、
彼女自身はデジタルから「現実の人間」へ主体を引き戻そうとしていたということ。
葵自身が、その成功に「疑問を持ててしまっている」という点。
そして彼女が本当は何をしたいのかという岐路に立ったのが1期の決着をつける「ハノイの塔」事件において、対峙したスペクターはブルーエンジェルの役割を剥がし、
自分が何者か分からなくなった期間を葵に与えるきっかけとなったことだ。

絵本『青い涙の天使』への憧れとは何だったのか
葵が憧れていた絵本『青い涙の天使」は、
- 勇気ある女の子
- 悪に立ち向かい
- 誰かを救い
- 最後は祝福されるという、極めて古典的な物語構造。

重要なのはその物語には必ず「見てくれる誰か」がいること。
つまり絵本は、正しく振る舞えば、
世界は意味を与えてくれるという前提で成立している。
ブルーエンジェル時代の葵は、
- 可憐で応援され
- 守られ
- 期待される
そんな存在を(バイラ戦をきっかけに)目指そうとしていたところだ。
これは彼女が望んだ姿であると同時に、世界が用意してくれた役割でもある。
そして、スペクターがやったことは、勝つことや叩きのめすことではない。
彼は物語としての「ブルーエンジェル」を成立させないことをやった。

- 助けは来ない
- 観客は救わない
- 己一人の正しさは報われるものじゃない
これは、絵本の否定でもあり、
誤解されがちなのが、葵が弱くて覚悟が足りないという話ではない。

スペクターに否定されたのは、世界は、善良な主人公を守ってくれるという前提を否定した話です。

葵はその前提が崩れたまま、次の物語(存在理由)を信じられなかった。
何故なら、もう一度カリスマデュエリストの「ヒーロー」をやればいい、強くなればいいという選択肢は、また同じ前提を信じ直すことを意味する。
絵本の世界を脱却した彼女は、
- 仮想世界『リンクヴレインズ』
- 物語『青い涙の天使』
- 役割『ブルーエンジェル』から一度降りる。
葵はそれを拒否し、物語に守られない場所で
もう一度、自分の価値を確かめる試みを始めた。

葵が打ちのめされたのは、
- 夢を否定されたからではない
- 弱さを否定されたからでもない
「正しくあれば、いつか報われて『物語』が救ってくれる」という支えてきた信仰を否定されたこと。
だからブルーエンジェルは続けられなかった。
VRAINSは葵を通して、世界は物語にならないが、それでも人は生きるという点。
そしてそれを理解してしまった瞬間、
彼女はもう、絵本の主人公ではいられなかった。
もしブルーエンジェルのままカリスマデュエリストとしての物語を続けた場合、敗北は「イメージダウン」ではあるが彼女の苦しみは「勝負の演出」に吸収され、本人(葵)の痛みが、役割(アバター)に回収される。
つまり傷つくことや挫折も“商品として成立してしまう”
この状態は「消費されながら成長する」ことを否定する作品として受け入れてはならない。
ブルーエンジェルは“可憐なヒロイン”という外部から期待された役割だった。敗北し、辱めを受けようが、見守っている観客から象徴として扱われるのが『リンクヴレインズ』の世界。
だからこそ「無名の時間」としての『ブルーガール』であり、
これは現実の人間が最も長く過ごす時間帯でもある。

その頬の十字はまだ傷を隠していない
=否定された自分を完全には否定していない
というサイン。
- ブルーエンジェル → かつての理想像
- ブルーガール → 傷を抱えた治療段階
- ブルーメイデン → 再定義された自己
この移行期であることの視覚的マーキングです。
後のブルーメイデンの
- 誰かのために立つ選択
- 誰も見ていない場所で自らの行動を選ぶ
- 承認よりも関係性を優先
ここで初めて役割ではなく、主体としての葵が成立。
ブルーメイデンになった瞬間に葵は「自分がどう見られるか」より
「誰のために立つか」を先に置く。
- 名前を変え
- 見た目を変え
- 立場を落とす
VRAINSは葵を通して「傷ついたから変わる」のではなくて「自分の原点に立たせる」という意味でも、認められるために戦わないことを選ばせたこと。
“メイデン”は可憐さの記号ではなく「誰にも所有されていない存在」を表している。
誰からも喝采を受けない人知れずに「守られない場所」に立たせたことで、
彼女はようやくプレイメーカーと一緒に戦えるようになった

誤解されやすいかもしれないが、葵の中では
- ブルーエンジェル=間違い
- ブルーメイデン=正解
というわけではない。
しかし、既に成功していたからこそ、捨てる必要があったという構造を彼女は捉えていた。
『遊戯王VRAINS』は承認の奪い合いに勝つ物語ではない。
これはVRAINS全体の思想として、
「正解」に居着くな、承認に安住するな、役割(アバター)で生きるなというテーマでもある。
VRAINSの「トライ」を実践したヒロイン
「世界の理不尽に直面する一個人」として立たされる。
しかもVRAINSは、彼女に成功体験を与えない。
なぜならこの物語は「ただ努力すれば報われる」ことを否定しているからだ。

しかし、報われなくてもそれは失敗ではない。
それは、現実世界において多くの人が直面する“正しくあっても勝てない”状況の写像であること。
彼女は勝者にはならないし、ヒーローにもなりきれない。
勝者のカタルシスは与えられない。
それでも、自分が選んだ誰かの役に立つために戦うという、最も地味で最も人間的な場所に着地する。
ブルーメイデンになった葵は、
- 完成したヒロインではない
- 成功者でもない
- 勝者でもない
ただ一つ、これだけは変わった。
物語がなくても立てる人間になったこと。
彼女は『役割』ではなく自分の為にも変わり続けることを選んだ。
何度もの敗北と否定を受け、肩書きが壊され続け、それでも「現実の人間関係」に立ち戻れた彼女は勝者ではなかったとしても、
役割に逃げなかったという一点で、
それ自体がVRAINSにおける「トライ」に相応しい着地になっている。

「夢を叶えた姿」ではなく「夢が守ってくれなくなった後の生き方」を与えた。
だから、ブルーメイデンは静かで、地味で分かりにくい彼女の成長であり、
それもまた、VRAINSが目指して見せようとした到達点ではあるのだ。
だからこそプレイメーカーの正体である、遊作と繋がり、握手が交わせた。

そしてVRAINS世界では「他者からの評価」に依存した者ほど、帰る場所を見失う。
鬼塚はその最たる例だ。
「鬼」は人外ではなく“人間の裏面”
日本語における「鬼」は、もともと理不尽な力や恐怖の象徴であり、元は人であった存在を意味している。
つまり鬼塚の「鬼」は、人間であることを保てなくなった状態を指している。

ヒーローだった鬼塚は、鬼を“飼って”いた
初期のGO鬼塚は、
- 子供を守る
- 正義を名乗る
- 強さを誇る
という、理想的ヒーロー像。
ここで重要なのは、彼が“鬼”を否定していたのではなく、
自分の鬼を内包したまま、ヒーローとして振る舞えていたという点。
名声や承認があったからこそ、それが隠せた。
しかし彼にとって敗北=内なる自分の解放であり、
プレイメーカーとリボルバーに敗れた瞬間、
- 強さが否定され
- 観客が去り、役割が消える
ここで鬼塚は、ヒーローという「檻」を失う。
すると現れるのが、承認されない自分であり、存在価値を証明できない自分という露わにされた「鬼」があった。
人体改造は「鬼」の視覚化
人体を弄られ、顔つきが変わる描写は過剰に見えますが、
これは現実の、
- 炎上系配信者
- 過激化するインフルエンサー
- 数字のために人格を変える人々と同じ構造。
鬼塚はそれを、背負わされた実験例。
2期から鬼塚が鬼になり続けたのは、
- 悪になりたかったから
- 勝ちたかったから
というわけではなく、人間として戻る場所がなかったから。
ヒーローを降りても居場所がなく、鬼になることでしか存在を保てなかった。VRAINSは一貫して、
- 人は「役割」で生きやすい
- 役割が壊れると人格も壊れる
- それでも世界は待ってくれない
という冷酷な前提を置いている。
そして、鬼塚の「鬼」とは役割を失った人間が引き受ける“最も分かりやすい場面”。
そして、彼のように承認が切れた瞬間に現れる、人間の素顔であり、VRAINSはその顔を“醜いまま”描くことを選んだ。


だから鬼塚は救われないし、視聴者も不快になる。しかし、それこそが、
VRAINSが鬼塚に託した役割でもある。
「鬼」は、誰にでもなり得るのだから。
何も得られず、何も成し遂げられなかった者が
それでも世界に残ってしまうこと。
視聴者感情的には、
- 身勝手
- 取り返しがつかない
- 罰を受けるべき
と思われがちだ。
しかし、VRAINSは勧善懲悪を拒否する物語。
現実では、他人を踏み台にした人間がそのまま生き続けることは珍しくない。
アースは無垢で、誠実で、誰かを守ろうとし、消えたが、鬼塚は利己的で、過ちを犯し、誰かを犠牲にし、生き残った。
これは偶然ではなく、VRAINSは世界は善良な者より、しぶとく適応した者を残すことを示す。
人間は、間違えても消えないのだから。
鬼塚の帰還は「悪いことをした人間は消える」というフィクション的救済を否定するためであり、そこが勝手に満足して消えた「鴻上博士」とは異なって鬼塚の人生は続いてしまう。
承認を自己同一性の核に据えた人間が、どこまで堕ち得るかを描く子供向けホビーアニメとしてすげぇなという感慨を置いておくとして、ご覧のようにVRAINSは優しい物語ではない。
救済も少ない。
だが、その冷酷さこそ描く必要があるのは、AI・ネット・承認社会が現実となった今、ようやく理解できるようになっている。
そして、この物語はこう告げている。
ヒーローにもなれず、悪にもなれず、物語の中心にも戻れない。
それでも、生きている以上、世界に存在し続ける。
これが3期の鬼塚の姿だ。

VRAINSは鬼塚を通して、
- 過ちの後にも人生は続く
- だが、元には戻らない
- それでも選択は迫られる
という、極めて現実的な残酷さを描いた。
だから鬼塚は戻ってきた。
戻る価値があったからではなく、
人間は戻ってきてしまうものだったから。

そして告げているのは、人生に答えはない。
それでも選べ、と。
それが人間であるということなのだから。