AIの学習には必要な大量データを供給するため、AIはいわゆるビッグデータから隠れたパターンや洞察を発見し、この相互作用によって、様々な分野で革新的な成果が生まれている。
最近SNS上でよく言われている「生成AIは漫画村と同じ盗作だ」という主張の最大の弱点は実はここにあり、
- 漫画村:違法にアップロードされた“完成物”を、そのまま配布
- 生成AI:既存データを統計的に学習し、新規生成物を出力
この違いは法的にも技術的にも決定的である。
そして致命的なのは、
Twitter(現X)そのものが後者の構造で動いているという事実。
- 投稿はすべてログとして保存され、エンゲージメントは解析
- 広告トレンド生成に使われ
- それ自体が巨大な学習データ集合になっている
つまり「生成AIはビッグデータ搾取だ!」とXで叫ぶ行為自体もまた、
既にビッグデータ提供行為そのものという自己矛盾が起きている。
だから内面はどうあれ、否応なしにTwitter/Xを利用している時点で既にそれを認めていることになってしまう。
Grokに絵師やVtuberが画像のAI学習を禁止しろという入力内容がネットにあったが、当然技術的・法的拘束力はない。
利用ツールの「構造」を見ないまま、言葉で境界を引いた“気”になっている。
だが、それを認めなければ「現実は無いも同然」というのが、我々人間のサガである。
今回はそういった最近のネット動向から、遊戯王VRAINSのテーマの根底であるAiや鴻上博士の話に入っていく。
そこにあたって、Aiの扱いに対する我々人間の動向を最初に追っていくが、上記のように、耳障りの良い言葉は抜きで語っていくのでご容赦願いたい。
「自分の創作はセーフ」という人間の認知力
「著作権」より先に「承認」を失っている
そもそも、このAI vs 反AIの議論が平行線なのは当然で、両者が守ろうとしているものが違う。
表向きの主張は、
- AIは盗作
- 労働を奪うし、創作者を殺す
しかし、実際に観測される行動を見ると、
- 二次創作中心の活動歴や、既存IPへの依存
- ファンアートとしての承認循環
- オリジナルでの市場競争経験が薄い
この層が目立ち、つまり彼らが守ろうとしているのは
創作倫理オンリーではなく、自分が報われていた承認の構造でもあるわけだ。
そして、既存の作品に生まれている「作者・文脈・ファン共同体」を前提にするからこそ、承認の流れが維持されている環境がある。
ここが決定的な違いであり、二次創作は「借用」だが、AIは「無視」するとして元作品を“参照している”と主張もあるが、やっているキャラや画像の切り取り、映画や漫画のワンシーン抽出、クソコラ大会。

これらは法的にも倫理的にも、忘れられがちだが完全に白ではない。
- 引用要件を満たしていない切り抜き
- 本来は二次利用不可の画像素材
- 文脈を破壊した再配布
「作者の意図しない利用」という点ではAI生成と地続きでしかない。
それでも人は「これは文化」「ファン活動だから」「昔からやってる」と言って正当化したがる。
つまり、問題は「盗作かどうか」ではなく自分が慣れ親しんだ行為かどうかで線を引いているだけ。
争点がズレているから一生噛み合わないのだ。
実際の対立軸として焦点に充てるべき生成AIの問題点は、
- 学習データの不透明さ
- 権利者への還元設計の未熟さ
- プラットフォーム側の説明不足
であって、拒絶反応が生まれそうだが「使ったら即盗作」というわけではない。
ここを飛ばして感情論にすると、
使ってる人をモラル欠如扱いし、技術理解の話が道徳説教になる。
- 「努力の価値が下がる恐怖」
- 「自分の表現が代替される恐怖」
- 「説明できない技術への拒否反応」
これ自体は自然な反応である。
ただ問題なのは、その恐怖を構造理解ではなく、悪役作りで処理しようとすること。
本来、盗作とは
- 特定の作品や特定の構図・表現
- 実質的な同一性が必要
しかしネット上の反AI言説では、
- 学習しただけで盗作
- 「似ているよね」=「盗作だよね」
- 影響を受ける=盗作だ
と、定義が意図的に拡張されている。なら『呪術廻戦』やら作者が影響受けた色んな作品が盗作か否かを先に議論しようってなるハズだがそれは置いといて
これは倫理議論ではなく、脅威を悪として固定化するための言語戦略であり
そしてその悪役が「AI」「使ってる人」「新参者」になる。
その結果、自分が依存している「プラットフォームの構造は見ない」という現実を招いてる我々が慣れ親しんできた場所はビッグデータ工場であり、二次創作文化はグレーの積み重ねで、便利さは常に誰かのデータの上にあること。
この前提を直視しない限り、SNSは「構造を考えなくて済むための思考停止装置」として使われやすい。
世はより地獄の様態を増しているが、SNSの収益で金儲けもできて当人の中では「一石二鳥のハッピー」だからそれでいいのだ。よくねぇよ

「構造問題」を取り上げるにはトピックが複雑怪奇
- 因果関係を整理する必要がある
- 歴史や制度、技術の前提を理解する必要がある
- 自分もその構造の一部だと認めなければならない
一方で倫理というトピックにすれば手っ取り早い。
- 良い/悪い
- 正しい/間違っている
- 被害者/加害者
思考コストが圧倒的に低い。
SNSや配信コメント欄のような即応性が求められる場では、
「構造を理解してから発言する」人は不利になります。
だから人は、
考えなくて済む言語=「倫理」を選ぶ。

構造を見ると「自分も当事者」になる
創作を守っていると主張しながら、自分が特別でいられた時代を守っているものとして、倫理の仮面を被った承認喪失の嘆きは感情的で、攻撃的で、定義が曖昧になりやすい。
AIはそれを「気にせず成立する存在」として否定してしまう敵という対立がある。
ネット上の反AI界隈は自己保存反応としての面があるように、構造問題を見始めると、必ず自分も恩恵を受けているか否か、自分も加担したり、自分も止められなかったというのも含めて俯瞰的に見なくてはならない。
例を挙げると
- 生成AI問題=自分のSNS投稿も学習データ的価値を持つ
- 海賊版問題=無断転載や切り抜き視聴も同構造
- 差別問題=無自覚な同調や沈黙も再生産に含まれる
倫理で殴れば「私は正義側」という安全地帯に逃げられる。
そして構造を見るとその安全地帯が崩れる。
だから人は避けるし、倫理は「物語」になりやすい
人は物語が大好きで、話はすぐに物語化したがる。
- 悪い企業や加害者
- 傷つくクリエイター
- 正義の告発者(=自分)
一方、構造は物語にしにくい。
- 分散責任
- システム的誘因
- インセンティブ設計
- 歴史的経緯
これらは感情移入しづらいし、拡散されにくい。
何よりバズらないので結果、倫理の物語だけが残る。
倫理を語ると、
- いいねが付いて共感される
- 仲間ができる
- 敵が可視化される
つまり倫理言説は、承認欲求を満たす設計と相性が良すぎる。
一方、構造批評は話が長いし、空気を壊す。
コミュニティに水を差すし、どっちつかずに見える
SNS的には「最悪の振る舞い」で、だから淘汰される。
構造の話をすると最終的に設計者の問題や制度の問題、経済合理性やら集合的選択といった「これ誰も今すぐ裁けないよね」という問題にぶち当たる。
だが倫理の話にすれば「あいつが悪い」「使う人が悪い」で終わらせられるしスッキリする。
何も解決しないけど。
だから「倫理」が先に来る社会は壊れやすい。
倫理が先行する社会では
- スケープゴートが量産され
- 技術理解が止まり
- 問題の再発を止められない
そしてようやく立ち返るが、遊戯王VRAINSで言えば、
「鴻上博士は倫理的に悪」で終わらせたい視聴者と作品の乖離がここにある。
SOLテクノロジーもネット社会も何も変わらないことに目を背けたうえで、皮肉にも「現実の我々」はこれを求めてしまった。

そしてその行き着く先が、3期のAiが直面した「シミュレーション結果」でもある。
VRAINSが描いたのは“悪”ではなく“構造”
これまでの遊戯王シリーズは、
- 倒すべき悪あるいは敵
- 倒せば世界が良くなるはず
- 勝利=問題解決に近づくステップ
という物語構造を持っていた。
しかし、VRAINSでは、
- SOLテクノロジーは倒されない
- ネット社会は終わらない
- イグニスは滅びても、Aiの利用は残る
つまり問題を生んだ“装置”そのものは生き残る。
鴻上博士はよく「元凶」と言われて取り上げられがちだ。

が、VRAINSは彼を単なる異常者として描いたわけではない。
鴻上博士は“例外的な狂人”ではない
まず重要なのは、鴻上博士の思想自体は、特殊でも異常でもない。
彼の価値観を整理すると、
- 世界には最適解が存在、感情や倫理は誤差でしかない
- 犠牲は計算可能で、ある程度は許容される
- 正しい未来のためなら、現在は踏み潰してよい
これはSF的狂気と言いたいところだが、
ある程度はテクノロジー企業・国家安全保障など現実的論理に近しい。
それに対して警鐘を鳴らしている作品は既にあるし
『攻殻機動隊SAC』も見たことない方に向けて一言で言ってみると、
ネットに対する「現実社会での扱い方」を時代と共に見守りながら、そのあまりのヤバさによって鐘の音色が次第に大きくなっていった作品だ。https://note.com/embed/notes/n369a5aab0d56
つまり博士は「一人の悪人」ではなく、
「現代社会が自然に生み出す思考様式」を描き出しており、それをメインキャラクターたちが取り巻いている。
なぜ鴻上博士は謝らないし、裁かれもしないのか
ここが多くの視聴者と作品の決定的なズレです。
視聴者はロスト事件を「個人の犯罪」として見たがる。
しかしVRAINSは一貫してロスト事件は、遅かれ早かれ迫られていた社会的実験に近しい“システム犯罪”であるとして描いている。


- 研究体制
- SOLテクノロジーの承認
- 技術至上主義
- 成果主義
これらが揃えば、鴻上博士がいなくても結局同じことは起こる。
だから作品は彼を法廷に立たせられない。
立たせた瞬間、この問題が、個人の問題に矮小化されてしまうから。
じゃあ、ロスト事件なんてやらないで普通に研究しろってなりますが、
この主張の裏にいるのがなんと後のロボッピ
- ロスト事件を経験していない
- 人間に実験対象として扱われていない
- トラウマも負債も背負っていない
つまり人間の“被害経験”を入力されていない只のAIであり、
この話の延長に敷かれている。

彼の変貌は人間社会の評価軸を、そのまま吸収した結果である。
ロボッピは強い方が偉い、禁止用語の「バカ」はお利口さんなら使ってもいい、勝てば価値があるという主張をする。
これはロスト事件の子供たちの感情ではない。
彼が学んできたものである現代ネット社会そのもの。
Aiが言ったように、ロスト事件から生じたイグニスたちはあのライトニングすらアイデンティティに苦悩していたが、
只のAIは自然に人を見下し始めるし、キャパオーバーして壊れたのだ。
ロスト事件によって学習したイグニスを創った方が、人類の可能性は拓けたという皮肉がここにある。

ボーマンとライトニングという思想の「後継者」
話を戻すと、倒す相手としてボーマンとライトニングは、思想レベルでは鴻上博士の継承者に位置している。
ライトニングは演算予測可能な未来を築こうと、自由意志はノイズとして数え、管理された秩序こそ正義と主張。
これは博士の思考の純化形として生を受けている。
そしてその管理人であるボーマンとは
- 全てを統合すれば間違いは消えるし、個は不要となる
- 多様性は非効率
これは博士の研究成果が人格を持った姿であり、
彼は「AIが人間を超える過程そのもの」を人格化したものだ。
鴻上博士の当初の思想や理想は「消された」のではなく、生み出した存在によって「実験的に再現され、それが自らに刃を向けるという人間的破綻を証明された」ことになる。
ロスト事件被害者に「謝れ」という言葉が無意味になる
ロスト事件の被害者に謝れ、という声が多いのは自然です。
しかしVRAINSは、それを意図的に拒否している。
なぜなら、鴻上博士が仮に謝罪したら感情的なカタルシスを生むが、見逃された構造には目に行かない。
そして、彼個人の問題に落とし込もうとしても、次の鴻上博士が生まれることを意味する。
遅かれ早かれ、第二・第三の鴻上博士はSOLテクノロジーから必ず生まれる。
それは後のアース解体や鬼塚への非人道的な実験を見ても明らかだった。


そして、それを止める描写は、VRAINSには存在しません。
これまでの遊戯王シリーズというのは多少の差はあれど、シーズン毎の悪は倒される。世界は元に戻り、明日へ進んで終わろうとする。
Playmaker「俺はお前達と敵対するつもりなど無い!」
Ai「ほら見ろ! プレイメーカーは、ちゃんと俺達と人間が共存する道を見つけてくれる!」
ライトニング「80億分の1の意見で全体が変わるというのか?」
Ai「そういうことさ!人間は確率なんかじゃ測りきれない。小さな可能性が、いつか全てを変える!」
ライトニング「なるほど。では、私に80億分の1の賭けに乗れ、と。君は乗るか?」
ウィンディ「時間の無駄だろ」
68話「密会」より

しかし、VRAINSは世界は何も学ばないことに軸を据えた。
何故なら、世界の根底にある技術進歩は止まらないし、
人はまた同じ選択をすることが示されているから。
- 最適解を求める思想
- 犠牲を合理化しようと掲げられる「倫理」
- 成果が出れば正当化される研究姿勢
これらはすべて、現代の技術社会で共有されている人間の価値観。
VRAINSで恐ろしいのは、SOLテクノロジーやAi、LINK VRAINSやネットワークが、誰の味方でもないこと。
誰かが善意で使っても、誰かが悪意で使っても、同じように人を傷つける「構造」そのものは道徳心を持たないという視点
遊作「だが、この戦いが終わったら、お前達はどこかに身を隠せ。
イグニスが人間の傍にいる限り、愚かな人間達は必ず利用しようとする。
そうなれば、またお前達は戦いに巻き込まれる。ネットから隔離された場所に行くんだ」
Ai「そんな場所あるのかよ?」
遊作「無ければ作ればいい。そのためなら俺も草薙さんも協力する」
Ai「でもさ。俺達が隠れたとしても、第二、第三のイグニスが作られるかもしれないぜ?」
遊作「その通りだ」
Ai「え?」
遊作「おそらく人間とAIの戦いは繰り返されるだろう。
だが少なくとも、巻き込まれるのはお前達じゃない。俺はお前達に生きてほしい。持っている命を大切にしてほしい」
不霊夢「命……」
Ai「俺達にも命がある……」
遊作「そうだ。それを大切にするんだ」
尊「それじゃ不霊夢、僕達もその時にはお別れかな」
不霊夢「かもしれないな」
尊「でも、それでいいのかも。イグニスにも君達みたいな良い奴もいる。
だけど、人間みんながそれを理解するのはきっとずっと先だ。
不霊夢、僕も君には無事でいてほしいよ」
第83話「イレギュラー・ミーティング」より
だからVRAINSでは、どの勢力も「完全勝利」しない。
カタルシスがない、勝利の実感が薄いし救済が足りない。
しかしそれは「問題に対する誠実さ」であり、残されたのが、正解を語らず、管理を拒否し、戦いを続けること。
そして、その中で初期から自分なりに戦い続けていたのが、鴻上博士の息子である「鴻上了見」もとい「リボルバー」でした。
次回:鴻上了見はロスト事件の当事者であり、始末をつけようとする者
- 父の思想と手段の犯罪性も理解している
- それでも自分の手で“始末”しようとした
彼は一度も「自分は正しい」と言わない。
彼が言うのは常に「これは自分が選んだ行為だ」と責任を押し付けたり、「解決したふり」をしなかった。
そういった彼に対して、遊作は何を選んだのか。

そしてVRAINSは作品を通して主人公がネットを改革したり、システムを変えるとは一度も言わない。
彼らが臆病だからではない。
VRAINSは「一人の英雄」が構造を変えられるという幻想を最初から否定しており、それはPlaymaker vs リボルバーの一期ラストデュエルで、遊作が掲げた言葉に集約されてる。
そして最終的に構造の中で
「どう生きるか」しか選べないという、かなり大人で冷酷な答えを出した。
Ai「それって、強くないとやってけないんじゃないのか?」
Playmaker「だから人は強くなる。それが時に争いを生むかもしれない。
だがそうなったとしても、戦い続けるしかないんだ。
答えはなくても、繋がりを見つけ続けるために」
VRAINS 最終話より
だから当時は受け入れがたいものとなり、今になって見えてくるものがある作品となっている。