ソルジャーボーイを起点に読み解く「父性の呪い」と鏡像のヒーローたち
ドラマ『ザ・ボーイズ』シーズン3はこれまでの“悪徳ヒーローをぶっ飛ばす痛快劇”の顔をしつつ、実のところ「父性の呪い」をめぐる心理劇だ。
特に過去に縛られた男――ソルジャーボーイ。

過激なアクションや皮肉を超えて、キャラクターたちの内面に深く切り込んだシーズンでも、特に印象的なのは彼の登場だ。
彼は「時代遅れの男」として嫌悪感を抱かせながらも、どこか哀しみを誘う“亡霊的存在”です。
この記事では、ソルジャーボーイを起点に、ブッチャーやホームランダー、Aトレイン、ディープ、フレンチーとキミコの動きを整理し、これまでに抱かれがちな疑問――「ソルジャーボーイの不思議な魅力は何か?」「ブッチャーとホームランダーは同じ穴の狢なのか?」といった点も交え、それぞれの愛の欠損と承認への飢えを別様に演じ、他者を守るどころか自分の空洞を他人に転写していく様など、シーズン3の“転換点”を掘り下げます。
「期待に応えたかっただけ」の亡霊
ソルジャーボーイは、旧時代の家父長制をまとった暴力の偶像だ。だが、その中心は驚くほど空っぽで切ないものがある。表面的には、軍隊上がりの男尊女卑的・家父長的価値観の持ち主であり、現代の価値観からは敬遠される人物。
しかし、その「強さ」や「男らしさ」が、常に他人の期待に応えるための演技であったという示唆が、彼の印象を一変させます。

「人を傷つけるつもりはなかった」「ただ期待に応えたかった」――この言葉に、彼の核が露出する。
強さは彼の意志ではなく“他者の期待”という台本だ。 父に否定され、企業に利用されて“英雄のフリ”はいつしか人格になった。ホームランダーやライアンを前に彼が見ているのは、目の前の相手ではなく「自分の延長としての失敗」だ。だから排除したい。
ソルジャーボーイは、超人的な力を得ながらも、それがアイデンティティを奪い、人間性を崩壊させたことに苦しんでいます。彼のキャラクターは、まさにアメリカン・ヒーロー像の皮肉的な再構築です。
- キャプテン・アメリカのパロディであり
- 戦後アメリカの「父性の暴力性」「ショービジネス化した英雄神話」
- そして、その神話の中で“作られた男の虚無

彼は、ヴィランでもヒーローでもなく「使い捨てられた理想の亡霊」
この矛盾こそが、ソルジャーボーイの人間的な深みで、彼は明らかに現代社会では「距離を置くべき価値観」を持っている。
しかしその一方で、認められたい、誰かに愛されたかった、そうして本当の意味で強くなりたかったという根源的な感情が、どこか私たちの中にも共鳴するのです。そんな彼の姿に、哀しみとある種の共感を抱くのは、視聴者や私自身もまた「誰かの理想」を演じたことがあるからかもしれない。

ソルジャーボーイ × ホームランダー――鏡の前で食い違う父と子
両者は同じ反射面の表と裏で“作られた英雄”という起源、承認の渇き、家父長的暴力。だが決定的に異なるのは、愛をどこに置くかだ。ホームランダーに対して「お前は承認欲求か」と吐き捨てる場面は、ソルジャーボーイの内面の告白でもあります。
父親に認められたかったことや、力を得たのも期待に応えたかったから。つまり、彼がホームランダーを蔑むのは、自分が否定されてきた動機=承認欲求に駆られていた自分を見てしまうからです。鏡のように映った「もう一人の自分」を彼は心底嫌悪している。
自分のように作られたが、より強く、より人々に認められてしまった存在。しかも、自分と違ってその力を“自分のため”に使う承認モンスター。 これを前にしたとき、ソルジャーボーイは自分の過去と父の否定と、理想の失敗をすべて突き付けられるのだ。
両者の対称性
- 起源
- SB:戦時の神話が生んだパッケージ。強さは「与えられた役割」。
- HL:実験室のガラス瓶が育てた神話。強さは「与えられた呪い」。
- 承認の欲望
- SB:父からの承認という一点。期待の舞台に戻りたい。
- HL:世界からの承認という総量。投票・視線・歓声で穴を埋めたい。
- 愛の扱い
- SB:愛を奪われた側。だから他者の愛も信用できない。
- HL:愛を消費する側。愛も親密も自己愛の燃料にする。
- 暴力の意味
- SB:期待を裏切られた怒りの回路。自分史の清算。
- HL:承認の供給が途切れた時の麻薬。支配の証明。
- ライアンへの視線
- SB:過ちの再演を恐れ、芽のうちに“処置”を目指す。
- HL:自己愛の延長として所有しようとする。
ソルジャーボーイは「愛を与えられなかった父」ホームランダーは「愛を所有したい子」
互いが互いの喪失を照らし、“父と子の呪い”を二重写しにする光景が繰り広げられている。
ライアンを見てソルジャーボーイは、恐らくこう感じたはず。
「また同じ悲劇が繰り返される」「今のうちに止めなければならない」
それは「過ちを繰り返させないための決断」に見えるようで、実態は自己否定の連鎖を他人に投げつけているにすぎません。
ライアンの中に見たのは「自分のように期待を背負わされ、壊れていく存在」
だが、それを止めるための赦しや導きは彼にはない。なぜなら、彼自身がそれを誰からも受け取れなかったから。
また彼の価値理由は「強さ=存在理由」「弱さ=存在価値なし」という単純かつ悲しいもので、幼いライアンのように優しさや曖昧さ、純粋さを持つ子供は、彼にとって「未来の不安要素」でしかない。だから、ライアンを「弱さの象徴」として処理しようとした。
呪いを外に切り出して処理したい。
その不器用さと哀しみが、嫌悪の向こうで奇妙な魅力を発する。決して近づきたくないのに、目が離せないのだ。

ブッチャー――復讐でしか自分を保てない男の“変節”
ブッチャーの転換点は二度ある。
(1)S2終盤――ライアンを抱きしめて「壊す」ではなく「残す」を選んだ瞬間。
(2)S3中盤――父と弟レニーのフラッシュバック回――暴力で守るしかないという誤学習の起点に触れた。
彼はVに依存し、寿命を削って戦い続けており、守り方が壊れているという父やソルジャーボーイの「父性の呪い」に最も近い場所に立ちながら、ブッチャーは冷酷に見えて、ヒューイ(弟のような存在)やライアン(妻ベッカの子)に対して深い愛情を持っている。
つまりブッチャーは「守りたい相手がいるからこそ、自分は堕ちてでも戦う」という選択をしている。

英雄にも悪役にもなり切れない“第三の存在として戦いながら、そこにはヒューイやライアンへの情が残って勝っている――ここにホームランダーとの分岐の可能性がある。
フレンチー × キミコ――「兵器ではなく人間として見守る」という倫理
家族として父親・兄貴的役割を務めようとしたフレンチーは罪責で自己破壊に傾きながら“守るとは何か”の定義を更新し続ける。
キミコの願い(力を手放したい/別の強さを得たい)を、そのまま選択として尊重することを選んだ。
ここにあるのは父性の呪いの対抗策――ケアの倫理で“強さで守る”のではなく“相手が自分で決められる環境を守る”という愛情の姿だ。
この小さな実践が、物語に救いの座標を打ち込む。

Aトレイン――「罪と向き合う」という最も難しい成長
Aトレインは“走れるか否か”の身体的能力に執着してきた。しかしS3で能力と存在価値を切り離す試練に直面する。ブルー・ホーク事件、人種を巡る自己欺瞞と障害を負った兄からの蔑むような目、そこから至るヒューイへの誠心誠意を込めた謝罪。
『ザ・ボーイズ』において最も人間的な進化は、レーザーを打つ超火力でも先を読み切る知略でもなく「自分の罪を認めて口に出す」ことだった。

変化は痛みから始まる――彼はそれをやり切った稀少例だ。
ディープ――“赦しの演技”に逃げる空洞
だが一方で、ディープは「内省の替え玉」として赦し(承認)を欲しがる。
教団、セブン復帰、そこからのホームランダーへの服従。彼は反省“風”の所作を重ねつつ、内的変化を一度も引き受けない。
Aトレインが「選ぶ苦悩」を生きたのに対し、ディープは「選ばされる安楽」に沈む。

コミカルなようで可笑しいが無害ではない――被害者意識を盾にした加害の持続と連鎖、その風刺の役回りだ。
そしてこれはある意味、最も安易な逃避なのだ。
ソルジャーボーイという男に最終シーズンに期待すること
興味深いのは、彼が登場人物たちからはっきりと嫌われているわけではないということ。

ソルジャーボーイは『The Boys』の中でも非常に“中途半端な位置にいる男”で、愛されるわけでも、完全に憎まれるわけでもない――彼に対する周囲の視線は「評価不能」な空白や困惑を含んでいる。
彼は善悪のはざまでブレているというよりも、「人間的な矛盾を晒したままそこにいる」タイプです。
だからこそ、次のような評価がしにくい。
- ヒーローとしては失格
- 人間としてはどこか哀れ
- 敵としては共感の余地がある
- 味方としては信用できない
この曖昧な存在感こそが、キャラクターたちの反応を複雑にしてソルジャーボーイが「人を傷つけたくなかった」と本音を漏らすと、ヒューイ自身もまた父との関係や無力感と重なり、複雑な共感を抱いてしまうなど評価を難しくしている。
ブッチャーにとっては最初は手段として利用価値を見出していた。だが、似たような父親像・暴力性・孤独さを持っているため、ブッチャー自身の投影対象になってしまう。
だからこそ、ライアンを守ってソルジャーボーイを止める場面では父を重ねて「お前みたいな奴をこれ以上生みたくない」という暗黙の決別がある。ブッチャーにとってある意味では「自分の成れの果て」であり、ライアンに手を出すまでは彼を責めきれないという “道を誤った人間の象徴”として、評価不能な感情を呼び起こされていた。そして、拒絶されたホームランダーも然りだ。
かつて英雄とされていたが、いまや誰のニーズにも合わない
だけど、自分が「間違っている」とも言えないし、どこか自己嫌悪に満ちている――。
それが、周りが彼に抱く“どう接していいか分からない感情”の正体で、彼は、世界にも人にも「埋葬されないまま残ってしまった男」

つまり彼は、「敵」でも「味方」でもない。
誰からも肯定されないが、完全には否定もされないという、複雑な立ち位置にいる。
現在、彼は再び冷凍保存され、物語の外側にいる。
だが最終シーズンでは、ぜひもう一度彼の物語を描いてほしい。そして願わくば、それが「倒される」ためではなく、
自分の過去や呪いを断ち切るような再生の物語であってほしい。
感情の置き場所に困るキャラクターは、フィクションの中でもそう多くはない。
彼のような存在がいるからこそ、『ザ・ボーイズ』という物語はただの風刺にとどまらず、もっと深い“人間の物語”になっている。
最終章で彼がどうなるのか。
物語の中で何かを赦し、終わらせ、誰かを壊さずに済ませられるのか――
その瞬間を、期待せずにはいられない。

「俺のようになるな」とそんなふうに、次の世代へ何かを託すことができたとしたら――
それこそが、彼にとって唯一の「ヒーローらしさ」になるのかもしれない。